Hodgeさんあてです。
何度書いてもわかっていただけないようで、とても残念です。
そして、何度繰り返しても理解の上での批判をいただけないようで、とても残念です。誤読に基づく批判を繰り返されても、これ以上説明のしようがありません。
昨日のエントリーに書いたように、基本的なスタンスの違いそのものは、私の経験なり、想像力なり、言葉をつむぐ力なりの不足によるところが大きいのでしょうから、それを反省しつつ、きちんとお話できればと思ったのですが、ちょっとこれ以上は無理です。
私の言いたいことの基本は、昨日すべて繰り返しました。
今日は細かい反論のみに終始します。
チェイニーの娘の件から始まって、彼女の「自己申告」を「否定」して、ブッシュ発言を「正しい」とする意見の表明。「変態」という言葉の連発。そして「持論」を展開して、締めは、「豆腐」だとか「あぶらげ」とかいう馬鹿にしきった「レトリック」。
メアリー・チェイニーについて、私はただの一度も彼女の自己申告を否定してはいません。
「彼女が(自分は生まれつきのレズビアンだと)自己申告している」ことを知らなかったので(私が読んだ記事はすべて、彼女はこの件についてはノー・コメントを通していると書いてあったのです)、「彼女が実際に自分を生まれつきだと認識しているのか、それともそのようなセクシュアリティを選択したと認識しているのか」については、私は言及できないし、しませんでした。ご確認ください。
同性愛者を「変態」とする発言も、私はしたことはありません。良く読んでください、本当に。
同性愛者も、異性愛者も、それ以外のセクシュアリティも、すべて「変態」である、という記述はしました。それはクィア・スタディーズによる変態/正常の区分の転換を通じて、ある種広く共有されている言い方であると思っていたので、この部分の説明が足りなかったとしたら、申し訳ありません。
「豆腐/納豆」については、レトリックが行き過ぎたところがありましたが、基本的には、私は、性愛上の好みは、食べ物の嗜好と同様に、自由であるべきだと考えています(ものすごい繰り返しになりますが、現在そういう状態であるとは一言も言っていません)。あれがこれよりも「本質的」であり「生得的」であるとする根拠は、特にありません。さらに「禿げ/髭」「縛り/縛られる」については、これはもう、完全に「同性愛/異性愛」と同様の区分として成立す「べき」だと思っています。そうなっていないのは、二項対立的な異性愛規範とジェンダー制度が存在しているからです。
「フーコー的な歴史的構築性や権力の分配の分析と同時に、デリダ的な脱構築」をやりたいだけならば、なぜセクシュアル・マイノリティを「実験台」に乗せるんですか?
ハヤリだからですか?
これも何度も書きましたけれど、私は「セクシュアル・マイノリティ」を「対象」にした研究の興味のみからこういうところにこういうことを書いているわけではありません。こんなブログなんて、いくら書いても何の足しにもならない。研究の対象にしたいのなら、こんなところで時間をつぶさずに、本を読み、リサーチでもして、後はすっきり今日見た映画のことでも書いて寝ます。この問題は、私個人にかかわってくることなのです。これは実験ではないんです。
そもそも、フーコーの歴史分析も、デリダの脱構築も、そもそも「それをやりたくて」やるわけではないでしょう。自分の直面する問題、考えざるをえない問題を考えるのに、それがなんらかの助けになるからこそ、試みるものではないですか?それから、「クイア・スタディーズ」、全然はやってませんよ、日本の、少なくとも大学の中では(そこが私たちの仕事場ですから)。若手の研究者で仕事を見つけるのに苦労している人は、私に限らずいくらでもいます。流行だからやるのであれば、もっと他の領域がいくらでもあります。英米とは少し事情が違うのです。誤解なさいませんよう。
それから、これはむしろ、Hodgeさんの最新のエントリーにコメントを寄せたHanaさんに向けられるべきことかもしれませんが、「セクシュアル・マイノリティ」といえば必ず「同性愛者」だと決め付けるのは、私は嫌いです。ええ、それは私がそこから排除されるからであり、私の友人や知人にもそこから排除される人がたくさん出るからです。その中の何人かは、傍から見れば「シングルの異性愛者」のように見えますし、何人かは「同性愛者」のように見えますし、何人かは「パートナーのいる異性愛者」のように見えます。けれども、それをすべて「異性愛者」か「同性愛者」に(あるいは「両性愛者」にも)振り分けることはできないのです。
たとえば、私が「自分はヘテロセクシュアルではない」というのは、私がヘテロセクシズムの抑圧を感じるからではなく(それだけだったら、ヘテロセクシュアルであっても女性として十分その抑圧を実感できます)、私が、一般にヘテロセクシュアルな性行為と言われているものを行わないからです。具体的に言う必要がありますか?私が、膣挿入をともなう性器性愛を行わないからです。それは相手が女性であっても男性であってもまったく同じことです。「それより他の行為を好む」のではなくて「その行為をはっきりと好まない」のです。だから私は「レズビアン」でもないし「ヘテロセクシュアル」でもないし「バイセクシュアル」でもないのです。けれども私は性的な刺激を楽しむこともあります。だから私は「アセクシュアル」でもない。そういうことまで説明されないと、どうして「ヘテロセクシュアルでもレズビアンでもない」と自称する人がいるのか、想像できないのでしょうか。
ええ、私はその気になれば結婚もできます。けれどもそれは、性的な側面だけに限っても、膣挿入をともなう性器性愛を今後一切行わなずに性行為を楽しめる(それをし続けることのできる)相手が見つかれば、の話です。
それで、私がたまたまめぐりあった相手が男性だから、私はヘテロセクシュアルですか?相手が女性だった時、私はレズビアンだったのですか?私のセクシュアリティは、私が意図したわけではないけれどもそこで変わったのですか?それとも私はバイセクシュアルなのですか?その表現のいずれもが、私のセクシュアリティについて、それに関する私の経験について、何一つ語っていないとしても?
私の「嗜好」は、「膣挿入を伴う性器性愛を行う/行わない」という軸に沿っています。他の軸も色々あるけれども、それが基本です。私はそれを選択したわけではありませんし、変えようと思っても変わらないでしょう(無理やり変えようとしたことはありませんが)。それでも私の「嗜好」は「指向」ではなく、それゆえにジェンダーの軸に沿った対象選択よりも本質的に一つ下の位相に数えられるものですか?
そして、私はたとえばSMを「変態嗜好」として、同性愛/異性愛という「変態ではない指向」をそれと峻別しようとする身振りが嫌いです。私自身は(主に過去および現在のパートナーの側の好みにより)SMを実践はしませんが、性器性愛・膣挿入を必ずしも必要としない性愛の形態として、私はSMにはある種の可能性があると思っているし、パートナーと同意ができればSMを実践していたかもしれないと思っています。その場合、私にとってはSMが、「同性愛/異性愛/両性愛」というカテゴリーよりは、私のセクシュアリティとアイデンティティにとって重要な「嗜好」であったかもしれないとは思いませんか?
それでも、異性のパートナーを持っていればヘテロセクシュアルだとおっしゃるなら、それでも結構です。あなたにとっては私はヘテロセクシュアルです。けれども、私は、他人が(たとえばあなたが)、その呼称によって、私のセクシュアリティとそれに関わる私の経験とを少しでも推測できたつもりになることを、拒絶します。
ちなみに、現実の生活での私は、「ヘテロ規範が前提となっている」場では「自分はヘテロではない」、「セクシュアル・マイノリティがマジョリティである」場では「自分はレズビアンはないし、バイセクシュアルでもない」と言います。セクシュアル・マイノリティ内部での覇権争いを憂慮なさっているHanaさんに、そういう点でご迷惑をかけることはないと思います。
僕があなたの<嗜好理論>には無理がある、現実を無視している、というと、「SMフェミニスト」だとか「ブッチ・ダイク」だとか、様々な「相対主義」をし掛けてくる。
「相対主義」?何が相対主義なのですか?
SMフェミニストについては、Hodgeさんが持ち出されたので、私は「そういう人もいますよ」と言っただけです。それ以外に何の発言もしていないですよ。ご確認ください。そして、「ブッチ・ダイク」の何が相対主義なのですか?まさしくど真ん中で「同性愛者」でしょう?私は、Hodgeさんのおっしゃるような「同性愛/異性愛は必ず生得的で本質的だ」という表現では、同性愛者として自己認識をしている(あるいはしてきた)人の少なくない一部を切り捨てていることになりませんか、と尋ねたのです。それに対して、「それは<同性愛の異性愛>というロジックを認めることだ」という趣旨のご発言があったので、<同性愛の異性愛>を認めないことで、再び、切り捨てられる「同性愛者」がいるのに、それは構わないのですか、と尋ねたのです。ブッチ・ダイクの知人の例は、あくまでもその一例として出したまでです。それのどこが相対主義ですか?
しかし、その場合でも、あなたは、なぜ、「SMフェミニスト」や「ブッチ・ダイク」のアイデンティティのことがわかるんですか。
私がいつそういうことを言ったのでしょうか?私は「SMフェミニスト、というのはいますよ」と言いました。存在しますから、そういう人は。一般的に「ブッチ・ダイク」のアイデンティティがどう構築されたか、私がわかるといいましたか?「異性愛の同性愛」のくだりで私が「ブッチ・ダイク」を例に出したのは、実際に私が彼女を知っていて、さらに彼女の友人の話を通じて、「異性愛の同性愛」とでも呼べるかもしれない自己認識を持つ人もいることを知っていたからです。ただ、私は「ブッチ・ダイク」は「異性愛の同性愛」だと書いたことはありませんし、ましてやそのアイデンティティがどう構成されたと認識しているかとか、そんなことには一言も触れていません。
どうして、セクシュアル・マイノリティの「アイデンティティ構築」について一言を主張できるのか、それが僕には納得がいきません。
私は「セクシュアル・マイノリティ」の「アイデンティティ構築」について「これが真実だ」と言ったことは一度もありません。私が言ったのは、「セクシュアル・マイノリティのセクシュアリティは常にすべて生得的だ」という主張は、事実に反するし(反例はいくらでも出しましたよね。全然それには触れてくださいませんが)、政治的にも問題がある、ということだけです。
あなたは、「SMフェミニスト」や「ブッチ・ダイク」、同性愛者を始めとするセクシュアル・マイノリティを、すべて<嗜好>による<構築物>だとしている。あなたには、そう「映っている」から。あなたには、そのように、セクシュアル・マイノリティが「立ち現れて」いる。だから、そのようなものとして、「絶対的に言い当てられる」という結論に至る。
いったいどこをどう読んだらこうなるのか。
私がいつ、セクシュアル・マイノリティを「嗜好による構築物」だと言いましたか?
っていうか、それってそもそも意味をなさないでしょう?セクシュアル・マイノリティという集団が、嗜好を基準としてつくられた社会的構築物だということですか?それなら、そうです。そうでなければ、何なのですか?マイノリティという集団は、すべて社会的に構築されるものでしょう?
「映っている」「たち現れて」いる、はどこからの引用ですか?どうして括弧つきなのですか?
そして何より、私がいったいいつどこで、「絶対的に言い当てられる」と言いましたか?絶対的に何を言い当てられるというのですか?
もう一度だけ繰り返します。
私が言ったのは、セクシュアリティは生得的なものではない可能性もあるし、実際に自分のセクシュアリティは生得的ではないと主張する人もいるのだから、セクシュアリティを常に生得的なものだとする主張はおかしい、ということです。そして、私が言ったのは、欲望は社会的に構築されるが、それは個人が自らの欲望を恣意的に完全にコントロールできるということとは全く違う、ということです。
ここからどうやったら上のような読み方にいたるのですか?
最初にセクシュアル・マイノリティ=研究対象が「主張」する<指向>を「判断停止」した「賜物」だ。
ごめんなさい、この文意もわたしにはちょっとわからないのですが。私は「自分のセクシュアリティは生得的だと感じる人もいるし、生得的ではなく選択によると感じている人もいる」と言ったのではなかったでしょうか。これは、セクシュアル・マイノリティ、いや、「ゲイ・レズビアン」とアイデンティファイする人々の中での話ですよ。「同性愛は生得的だ」という言説に疑義を唱える同性愛者の「主張」はどうなるのですか?自分は選択による同性愛者だという人はいますし、それより何より、「選択か生得的か」という二者択一の議論はおかしい、という「主張」は、「同性愛者」からもいくらでも出ています。私はそれに賛成するわけだし、それにHodgeさんが反対なさるのはそれはそれだけれども、Hodgeさんのおっしゃることだけが「マイノリティの主張」だというわけではないです。
また、僕のあなたへの「反論」として、「生まれつき」だからこそ差別が発生した、差別の「根拠」は産出される、ということに対し、あなたはどう応えましたか。
>>「根拠もなく」ではなく「正当な根拠もなく」というべきだった。ここで「正当な」というのは極力「正義」 にのっとった、という意味であり、私はこの部分を全面的に削除することはできないと考えている。
「正当」や「正義」は、そして無論「根拠」は、いったい、誰が決めるんですか。こういったことこそ、まさしくフーコーが分析したんじゃないんですか。同性愛者抑圧は、「正当/正義の根拠」の<主張>によってなされてきた。
だから・・・極力、と言う言葉を使い、正義を括弧でくくらないとならないわけを、説明しなくてはいけませんか?ええ、正義にしても根拠にしても正当性にしても、常に権力がそれを決定しようとするんです。そんなことはお互いにそれなりの知識がある以上、議論の前提でしょう?それでも、一切の「正義」を無化することはできない。「普遍性」への批判を決して忘れることができず、それでも何らかの「正義」という普遍的なモノを模索しないわけにもいかない、それが現代の状況だと私は思っていますけれど、違いますか?
たとえば、ルービンは、小児性愛を批判あるいは非合法化する根拠はない、と主張した。それでは、たとえば屍姦は?私はどちらも全面的に許容はできない気がするけれども、その「気」に根拠はあるのかないのか。どういう「基準」がありえるのか。あるいは、私が挙げたレイプの例は?私はレイプを容認するところに「正義」はない、と思います。本当にないのだろうか、と、常に考えなおし続けはするでしょうけれども、今のところ「(相手の同意のあるプレイではない)レイプ」という「嗜好」があった場合、私はこの嗜好を制限する(厳密に言えば、この嗜好の実践を制限する)ことには「正義」があると思います。それとも、一切の「正義」へ模索を放棄すべきだとお考えですか?
しかもあなたはフーコーが「権力」として批判した「精神分析」を(留保を交えながらも)肯定している。精神分析がかつて行った「犯罪行為」には、まったく「関心」がないようだ。
「精神分析」を「権力」として否定したのは、フーコーに限りません。フェミニズムは長いこと精神分析とは緊張関係を保ってきています。「精神分析」は「女性」に対しても「犯罪行為」をおかしてきたのです。私はそのような差別や抑圧を生み出してきた精神分析という物語に、警戒心を持ってはいます。精神分析理論を自分の判断の唯一の基準にしようとも思いません。それでも、前に書いたように、そして一部のフェミニストたちがしてきたように、精神分析理論を批判的に展開し、あるいはそれを逆手にとっていく試みには、十分な意味があると思っています(バトラーにしても、ド・ローレティスにしてもそうです)。
あなたは、セクシュアル・マイノリティを「変態」と呼んだ。不適切で適当な「レトリック」を使った──セクシュアル・マイノリティ相手なら、そのような「馬鹿にしきったレトリック」を使っても良いと「判断」した。
繰り返します。私はセクシュアル・マイノリティを「変態」と呼んではいません。あなたがどうお考えになろうと、私は自分を「セクシュアル・マイノリティ」だと認識してきていますし、自分がアイデンティファイするそのカテゴリーを侮蔑的な意味合いで「変態」と呼んだこともないし、これからも呼ぶつもりはありません。私は、「あちらが(ヘテロ規範が)こちら(セクシュアル・マイノリティ)を変態と呼ぶのであれば、あちらもこちらと同様に変態だと言おう」という態度が、クイア・ポリティックスの態度だった、と言ったのです。それは間違えていないと思いますが。そして「レトリック」については、上で書いたとおりです。食べ物の例については、行き過ぎがあったとしたら、謝罪いたしますが、基本的には、私はそれがほぼ同程度の「嗜好」であり得るべきだ(そのようなシステムであるべきだ)と、そう思っています。
あなたの「セクシュアル・マイノリティ研究」は、セクシュアル・マイノリティに対し、「抑圧的」です。
私の研究は、私が研究をするにあたって言及するさまざまなカテゴリーに含まれる人々(あるいはそこから排除される人々)に対して抑圧的でありえます。少なくとも、人間や社会にかかわる研究をしている限り、それはほとんど免れえないことだし、だからこそ、その可能性や度合いを少しでも減らそうと努力をするのです。ですから、ええ、おそらく私の研究は「セクシュアル・マイノリティ」に対して抑圧的に機能するでしょう。けれども、それが「同性愛/異性愛は常に生得的で本質的なものであり、他の性的嗜好とは峻別されるべきものだ」という主張に反対だからということによるのであれば、Hodgeさんはどうしてそれが「セクシュアル・マイノリティに対して抑圧的に機能する」と言えるのか、まだご説明くださっていないと思います。
(追記:もちろんこれは、「私の研究が抑圧的に機能するのは当然のことで、したがって批判されるいわれはない」ということではありません。私が言いたいのは、こういう分野の研究が何らかの形で誰かにとって抑圧的に機能するのを完全に避けることはできない、ということです。だから「その可能性や度合いを少しでも減らそうと努力をする」ことしかできないのです。たとえ努力をしていたとしても結果的に抑圧的に機能していれば批判されるのは当然だし、それを受けてさらに考え続けていくのが、こういう分野の研究者の職業上の義務でもあります。ただ、今回の場合、Hodgeさんのおっしゃるような「同性愛/異性愛は生得的な指向であり、他の嗜好とは違う」という主張に寄り添ったとしたら結局は抑圧に加担する、と私は考えるわけで、「抑圧に加担することにはならない」あるいは「その抑圧よりもこちらの抑圧を優先すべきだ」という理由が提示されないままのご批判に答えるのは、とても難しいことです。)
それから、一応。私は「セクシュアル・マイノリティ」ですが、「セクシュアル・マイノリティ研究」は行っていません。ご助言には感謝しますけれど。セクシュアリティやジェンダーについての研究はしますし、その過程でセクシュアル・マイノリティによる理論や文化実践や発言に(セクシュアル・マジョリティやジェンダー・マジョリティやレイシャル・マジョリティーによる理論や文化実践や発言にと同様に)影響を受けることはありますけれども、「セクシュアル・マイノリティ研究」はしていません。
「セクシュアル・マイノリティ」と「同性愛者」は同じではありません。「同性愛/異性愛は常に必ず生得的で本質的であり、それ以外はそうではない」という主張は(同性愛者の一部をも含む)セクシュアル・マイノリティに対して抑圧的に機能しうると指摘したことについて、そしてそれが異性愛規範を強化しうるのではないか(それは異性愛者、同性愛者、それ以外のセクシュアリティの持ち主、そのすべてに対して抑圧的に働くだろう)という点については、結局ご意見は伺えなかったですね。「同性愛者」であり「性的指向という用語を維持すべきだ」と考えている方だからこそ、その部分をどう整理なさっているのか伺いたかったのですが、とても残念です。
追記:
昨日書いたとおり、私の主張が、抑圧がより少ない立場にいる故の見落としをしているとしたら(「以下のような理由で、同性愛/異性愛を性的指向であり生得的であるとする主張は、なんらの抑圧も生み出さない」など)、あるいはそれ故に政治的な判断をあやまっているとしたら(つまり、「以下のような理由で、同性愛への抑圧を真っ先に解消すべきであり、そのために他の抑圧が生じるとしても、それは後から解決すべきである。」など)、ご批判はいくらでも承りますし、むしろ教えていただければ本当にありがたいと思います。ここで私に付き合う義務は、Hodgeさんにはないのですから。けれども、私の議論の多くを曲解したまま、そして私の「セクシュアル・マイノリティ」との距離というのかスタンスについての思い込みをもとにしたまま、批判を続けられても、これ以上説明ができるかどうか、ちょっと自信がありません。これも昨日書いたとおり、「私の立場」あるいは「私の享受している特権的地位」と、マイノリティの政治への「研究者」「個人」そして「ブロガー」としてのかかわり方について、批判的に考え続けます、ということしかできません。
再追記:
この件について、
Macskaさんがはるかに簡潔・明晰な書き方をされているので、私の錯綜した物言いが「わかんね~よ!お前の書き方はよ!」という方は、そちらをご参照ください。「自分の行為がもたらす功罪を常に問い続けるべき」というMacskaさんの言葉を、私もきちんと受け止めたいと思います。問題は、「問い続けているつもり」でも、いつも正しい判断を下せるわけではない点にあるのですけれども。
それから、ここでMacskaさんがおっしゃっている小児性愛に関する考察に、実は私も賛成です。このエントリーで自分から小児性愛に触れておいて、誤解を招くのを恐れて非常に腰のひけた書き方をしたのは、間違いでした。困難なテーマを避けずに正面から論じたMacskaさんの勇気に感服します。