前々回のエントリーのコメント欄に私が不用意に書いたことについて、色々とご批判をいただいた。本来は反省なんて一人でしてろよということだけれども、このブログ自体、一人で考えたことをとりあえず文章化して残しておいて、もし感想やら批判やらを寄せてくださったり新しい方向に開いてくださったりする方がいらっしゃればそれはそれで本当に有難い、というような性質のものなので、反省なども含めて一度あげておこうと思う。本当のところ、エライことこっ恥ずかしいのでもうブログごと全部消去してドロンしちゃいたいくらいなのだけれども、流石に子供じゃないんだし、そうもいかないわよね。きっとね。一応コトバで商売している人間なんだから、コトバで大失敗したら後始末もコトバでしておかないと。
とりあえず、経過をまとめてみると。
問題になったのは、私がトイレおよび更衣室の個室化に関して、「同性愛者、さらにTS/TGの存在を考えると、ジェンダー化されたトイレや更衣室で居心地が悪い人もいるだろうと思われるため、最終的には個室化の方向に動くべきだ」と安易に書いてしまったこと。
これに対して、
1.「この書き方は、同性愛者はつねにあらゆる同性を性的に意識しているという、同性愛者に対する偏見である」というご批判をいただいた。私はそれに対して「あらゆる同性愛者があらゆる同性を性的に意識するということではなく(つまり同性愛者側の欲望の視線の問題ではなく)、異性愛者が気になる異性と同じトイレや更衣室で居心地が悪く感じることがあるとしたら、同性愛者で同じように感じる人がいてもおかしくはないということだ(つまり視線の対象としての<自分>にかかわる問題だ)」と答えた。その答えに対して、さらに、「それは異性愛者の感性を勝手に投影したヘテロセクシズムである」(このご批判には一部反論した)、そして「そのような<気になる人を前にして意識的になる>のは同性の異性愛者同士でも生じる自意識の問題であり、そこでことさらに同性愛者という書き方をするのは、既に存在する偏見を助長するに過ぎない」という批判(こちらには同意した)をいただいた。
2.同時に、とりわけ「ジェンダー化されたトイレや更衣室で居心地の悪い人がいる」という点について、これを「同性愛者ではなく、TS/TGの問題なのだからそう書くべきだ」という指摘があった。私はそれに対して「同性愛者でもあり、Tでもあるという人たちが存在する以上、それはLGBの問題としても考えるべきではないか」と答えた。それに対して、「<人>の問題ではなく、<立場>の問題として捉えるないと、不必要な偏見を助長する」という指摘をいただいた。
まず最初に。
私の最初の書き方は、色々な意味で、明らかにまずかった。謝罪して訂正したいと思う。
私は、ジェンダー規範の問題(TS/TGにとってジェンダー化されたトイレや更衣室が居心地の悪い、あるいは危険なものになっているということ)、セクシュアリティ(正確には対象の性別による性的指向の分類)の問題(トイレを利用するのが同性愛者であるか異性愛者であるかそれ以外であるか)、そして視線の対象としての意識の問題、この三つを十分な考察なく混同して書いてしまった。
これは、私の側での、
・TS/TGとLGBの当事者が重なっている部分があるという認識、
・LGBという存在にとっての社会的な問題とTにとってのそれとはどちらもすぐれて<ジェンダー>という制度に関係しているのではないかという理解(これは私個人の理解です)、
・気になる人と一緒の更衣室というのはきまりが悪かったけれども、その「決まり悪さ」が相手への欲望のまなざしの問題(つまり「あの人の裸を見るのはドキドキ」という問題)ではなく、視線の対象としての自己という認識の問題(つまり「あの人に見られてもかまわないと思えるほどに衣服に隠されていないワタシは<良く>はないのに、どうしよう」という問題)に起因していたという、非・異性愛者にして視覚的に欲望を喚起されない一人の人間としての個人的経験の、安易な一般化、
そういうものが原因であったと思う。
けれども、この三つは、最終的には完全に別モノとしては考察できないにしても(できるかもしれないけれど)、少なくとも議論をはじめる段階では、論理的な理由からも、社会的・政治的な理由からも、区別すべきだった。その区別をし損ねた(それどころか、そもそも最初の書き込みではそれが「自意識の問題」であることを明記すらしていなかった)結果、「同性愛者はあらゆる同性を常にどこでも性的対象として見ている」というヒステリックな偏見を助長しかねない効果を生んでしまったことは、コトバを使うものとして無責任なふるまいだったと謝罪するしかない。
その上で、いただいたいくつかのご批判に対して私がある種の抵抗というのか、違和感を感じた、というところがあって、それはどうしてだったのだろうと考えていた。
・もちろん、単純に「自分のミスをなかなか認められない」という人間的な欠点というものもあるだろうし、それはそれで反省すべきであろう。
・けれども、それに加えて、まず第一に、同性愛者の実態や感じ方について「ご自身が何か知っているわけでもないのに、異性愛者の感性を同性愛者に勝手に投影した結果思い浮かんだことを断言」した、という批判を受けたことがある。この箇所については、ご批判くださったpine treeさんから、「(私が)異性愛者か非異性愛者かという話の中で使った言葉では」なく、「『異性と一緒にトイレに行ったり着替えたりするのがいやだ』という感性は、『異性愛者の感性』であり、このような感性を同性愛者に勝手に投影するべきではない、ということ」であった旨、御説明いただいた。けれども、少なくとも最初の御批判を一読した時点では、私はこれを「あなたは同性愛者のことを知らない(=異性愛者のことしか知らない)のに、その感性を勝手に投影した」との批判だと受け止めた。この受け止め方は誤解だったわけで、pine treeさんになんら非があるわけではないのだが、とりあえず私の「抵抗」はそこに起因していた、ということだ。
確かに、私は「同性愛者」の感じ方について自分自身で何かを知っているわけではない。繰り返しになるが、私は同性愛者では「ない」からだ。けれども、それは私が同性愛者で「ある」と感じていた時期を通り抜けなかったということではないし、逆に異性愛者の感じ方について何かを知っているということでもない。私の問題は、個人的な経験や感性を安易に一般化したところにあるので、その意味でこの御批判は完全に正しいのだけれども、その「個人的な経験や感性」が「同性愛者の実態」とかけ離れているとしても、それは私が「異性愛者の実態」に熟知しているということとは違う。
これは本当に個人的な問題であり、もちろんpine treeさんがこんなことを念頭に置いて話をしなくてはならない義理も理由もない。その意味で、これは批判や苦情ではないことを明記しておきたい。私がここに書こうとしているのはむしろ、私個人の弱点の再考察のようなものだ。
私にとってフェミニズムというのは非常に個人的なものだ。もちろん「フェミニズムは個人的なものだ」というつもりはないし、「個人的なことは政治的なこと」というそれこそフェミの基本的なスローガンを忘れ去るつもりもない。けれども、「個人的なことは政治的なこと」だからこそ、私は自分のフェミニズムを、「社会制度や法制度の問題」あるいは「運動の問題」よりむしろ、そのような社会制度の内部において「自分は何を、どうして、どう感じるのか、それはどう正しく、どう間違えているのか、間違えているとすればどう変えられるのか」という点に重点をおいて、考えてきた。私が自分を「机上フェミ」であるといい、「へたれ」であるというのは、そういう私のフェミニズムが、社会制度の変革という点においては、確かに緩慢であり微小であることが多いだろうと思うからだ。
そういう「自分を出発点にしてしかモノを考えられない」人間としての欠点が今回は露骨に出てしまったということであるのだが、同時に、そういうへたれフェミだからこそどうしても引っかかって譲れない部分というのも、ある。たとえば、私が異性愛者ではなく、同性愛者でもなく、バイセクシュアルでもないということ。たとえば、私は伝統的には抑圧的な「女らしい」化粧や服装を好むけれども(そしてこれはそれこそ商業主義の問題、国際的な資本分配の問題などもかかわってくるので、一概に「他人に文句をいわれる筋合いはない」と言うつもりはないが)、それは私が「女らしさ」というパッケージを丸抱えで承認しているわけではないということ。私はおそらく「ジェンダーの神話」から「解放」されていないので、自分の身体に不安や居心地の悪さを感じているし、その居心地の悪さをミスリードされたものであると認識はしているけれども、他人に「それは間違えている」と今更安易に言われたくないということ。などなど。
今回のことと関連させれば、私が何かモノを言うとき、それが間違えていたり、あるいは同意されなかったり(今回は前者ですが)すればなおさらのこと、その過ちや不同意の根拠として「あなたは同性愛者のことを知らない」「同性愛者の運動について知らない」という点をあげられることが、これから先もあるだろう。私はそれに対してどう答えられるのだろうか。過ちを認めつつ、あるいは不同意を受けて考えを修正したりしなかったりしつつ、そのことと「自分は同性愛者ではない、しかし異性愛者でもない」という曖昧な立場を両立させることは、どう可能なのだろう。
「あなたは間違えている、それはあなたが同性愛者の実態を知らないからだ」という批判を受けたときに、私は、「そう、私は間違えていたかもしれない、しかしそれは、私が同性愛者ではなく従ってその実態を知らないからではない」と答えなくてはならない。そして、同性愛者であることと、「同性愛者の実態」を知っていることと、同性愛者について正しい認識なり考察なりを行うこととは、別のことだと答えなくてはならないと思う(それは、異性愛者であろうと、バイセクシュアルであろうと、そのほかなんであろうと同じことだ)。それは、知らない人間を理解しようとしないことへの言い訳でもなく、ジェンダーについて、あるいはセクシュアリティについて、あるいは人間のその他もろもろについて考える作業を放棄するという表明でもない。むしろそこからこそ理解と考察に向けた努力が始まると私は信じているのだけれども。けれどもそれをきちんと伝えることが出来るだろうか。さらに、その努力を正しい方向に向けることが、私に出来るだろうか。
・さらにもう一つ。これはある意味でコトバを使って飯を食っている人間としては致命的なのだけれども。上のことにも関係するのだが、私は自分の「書き込み」が「差別的である」「ヘテロセクシストである」と批判を受けた時点で、「自分が」異性愛者でもないし差別の「意図」もないと明確にしなくてはならないという衝動を、まず第一に感じてしまったように思う。で、感じてしまうのみならず、その感覚に基づいて、「自分に差別の意図はない」ことを主張してしまった。ここには二つの問題がある。一つは、自分で常々言っていること(このすぐ上でも主張していること)とは全く逆に、私はどこかで「異性愛者でない」ことと「ヘテロセクシストではない」ことを繋げてしまっていたのかもしれない、ということ(これは逆に言えば、「異性愛者であればヘテロセクシストである(あるいはその可能性が高い)」と言っているのに等しく、ひどく本質主義的な差別的態度であると思われても仕方がない)。もう一つは、「差別的効果(あるいはそれを助長する効果)」と「差別の意図」とを混同しているということ。これも私が自分の研究や日常生活の中で常に主張してきたこととに、真っ向から対立する(しかも、わたくし一応、「作者は死んだ」文学畑出身のはずなのに!!)。実際には、差別の明確な意図はなくても差別的効果は生じうる。そのような「効果」は「意図」とは別にきちんと批判されるべきであり、私は自分の「意図」を釈明するより先に、自分の発言の「効果」について謝罪するべきだった。自分で信じている(と思ってきた)ことと、自分の実際の態度とが、ひどく乖離しているわけで、とてもとても恥ずかしい。
研究者としても、思ったことを言い散らしたがる口の持ち主としても、この先、無知や迂闊さ、あるいは想像力の欠如が原因となって、私の発言が、差別的な(あるいは差別を助長するような)効果を意図せずしてであれ持ってしまうことは、何度でも起こりうるだろう。その時私は、自分の「意図」の無実を主張するのではなく、自分の発言の「効果」の問題を(そこに問題があるならば)理解して訂正しなくてはならないのに、そんな基本中の基本の態度ができていなかったことが、我ながら腹立たしい。
以上の反省に立った上で、なおかつ反省するわけにはいかない部分、批判に対して「抵抗」なり「違和感」なりを感じ、それを今すぐには取り下げるつもりのない部分も、残る。最後にそれについてちょっと書いておこうと思う。
その最大の部分は、ひびのさんが書いてくださったことにも関係するのだけれども、基本的には、LGとBとTを別々に考えていくことは難しいのではないか、という点。これを「ポスト構造主義的フェミニズム」なり「クイア」なりの勝手だといわれれば、確かにそういう批判もあることは承知なのだけれども、これらを別々に考えることに政治的にも理論的にも限界があったところから「クイア」というタームの必要性が生じたということをふまえれば、それを再びばらばらにしていくことが本当に妥当なのか、私には疑問なのだ。
これはもちろん、各々の文脈において(例えば今回私が最初に書いたような例において)それぞれの「立場」の必要と要求とを個別に考えるべきだ、という主張に反対するものではない。しかし、たとえば「それはTの問題であり、LGの問題ではない」という形で議論をすることの危うさは、簡単に見過ごすべきではないと、思う。
理由の第一はもちろん、現実にLGとTとは「人間」(コミュニティという言い方をしてもいいけれども)においてしばしば重なるからであり、その時にそれはTの問題であってLGの問題ではない(あるいはLGの問題であってTの問題ではない)と考えることは、たとえば過去に非・白人のフェミニストが直面させられたような、「忠誠心の分裂」を強いる状況を生み出しかねないと考えるからだ。
第二に、「それはTの問題であり、LGの問題をそれと一緒にするな」という議論は、歴史的にしばしば、セクシュアリティー・クイア/ジェンダー・ストレートなLGがジェンダー・クイアを排除して自分たちの「ストレート性」をアピールするために用いられたものであり、今回の批判がその意図を全く持たないものであるとしても(そして私の書き込みに対する批判それ自体としては的を射たものであるにもかかわらず)、それと同様の排除に流れる可能性を持つからだ。
第三に、TやLG(B)の問題を解決するための具体的な社会的政策がたとえ重ならないことがあるにしても、それらが「問題」になるのは別々の理由によるものではなく、基本的には現行のジェンダー制度こそがそれらを「問題」にしてしまっているのだ、という認識を私は持っているからだ。これは、それこそ「ポスト構造主義的フェミニズム」的な発想なのかもしれないけれども、その認識は間違えていないし、最終的にはこの二項対立的なジェンダー制度を批判しなければ「問題」は形や対象を変え先送りされて残り続けるだろうと、私は考えている。(その点で、「トイレや更衣室の個室化の提案は、決して「TS/TGの必要性」を根拠にするべきではない」というひびのさんの御意見には、衝撃を受けつつ、遅ればせながら、心より賛成する。)
そして、繰り返しになるが、その意味において、私の最初の書き込みが正しくなかったということとは別問題として、「ポスト構造主義的フェミニズム」あるいは「クイア理論」が、「『男女二項対立図式の解体契機であるかどうか』という点から評価を下すスタンスをとって」おり、当事者を利用しているという御批判は、私は正しいとは思わない。もちろん、ポスト構造主義フェミニズム、あるいは「クイア理論」あるいは「クイア運動」の中には、特定の「当事者」の利害と一致しないものもあるだろう。しかし、そもそも「ポスト構造主義フェミニズム」にせよ「クイア理論」にせよ、ある種の「当事者」としての必然性から生まれてきたものであり、その主張を必要としてきた「当事者」も存在することは、忘れてはならないと思う。ジェンダー制度を揺るがせようとするアジェンダが先にあって、そのために「クイア」なりLGBTなりの「問題」が出てきたのではない。そうではなくて、そのような「問題」が先にあって、その解決のための一つの提案として、ジェンダー制度そのものを批判し、揺るがせ、そして解体すべきではないかという主張があるのだ。もちろん、その主張に賛成するも(私のように)、反対するも(「フェミニスト」にも「LGBTの当事者」にもそのどちらでもない人にも、反対する人はいる)、それはまた別の問題であるのだが。その順番をあえて逆にして批判することは、ミスリーディングであり、「クイア理論」を主張する「当事者」の存在を黙殺することにならないだろうか。そして何より、「クイア・ムーブメント」「クイア・スタディーズ」、そして「ポスト構造主義フェミニズム」(この二つは必ずしも同一ではない)の、それぞれの成立の過程や問題のたて方を誤解したまま、「クイア/ポスト構造主義フェミニズム」対「LGBTの当事者」という構図を持ち出すことは、理論にとっても政治にとっても、「当事者」にとっても(私はこの三つを切り離せないものだと考えるけれども)、有効な議論になりにくいのではなかろうか。