以前にちょっと触れたジュディス・ホルバーシュタム氏、来日講演など(
こんなのもあったし、あとお茶大で
こんなのも)があったので、結局何やかやと口実をつけては本をきちんと読み終えていない駄目人間ではあるのだけれども、とりあえずお話だけ聞きに行ってきた。
やっぱりとても話の上手な人でした。聞きに行ってよかった。基本的にはどちらも、ある意味
彼女の出世作(だと思う)のテーマのまんま、「女性の男性性」について。
私にとって印象深かったのは、彼女が「女性の男性性」の多様なあり方について語りながら、「ブッチ至上主義」とでも言うような、ジェンダー・クロッシングの手放しの礼賛というのか「オンナがオトコっぽいということは、それ自体で価値がある」というスタンスにならないように、さらに「女性の男性性」を「ドラァグ」的なパフォーマンスに限定したり、逆にパフォーマンスではない「日常の」男らしさに限定したりしないように(さらに言えば「女性の男性性」をレズビアンあるいはTG、TSに限定しないように)非常に注意を払っていたところ。
私は英国にいたころ一時期ブッチ・フォビアとでも言うべき状態だったことがある。周囲にいたブッチが、ブッチやTGが一番えらくて、TSはちょっとひよってる、化粧したがるダイクなんてますます理解不能、かわいい格好したヘテロ女は絶対却下(でもヘテロオトコとは「ラガー飲んで下ネタで笑ってスポーツの話で熱くなれるから」仲良くやってけるし、勿論ゲイ男性はlovelyなのでお友達)、と公言してはばからなかったり、道行くオンナノコを激しく品定めし続けたりということもあって、「外性器やら生殖器やらがどういう形でも、ホルモンバランスや遺伝子の組み合わせがどういう風になっていても、この手のオトコとは友達にはなれないわ!」と、すっかりブッチ不信に陥ったのだった。さすがに、そういう十把一絡げ的ブッチ・フォビアはじきに克服できた(と思うのだけれど、いまだにブッチ礼賛を聞くと身構えるのよね。克服できてないのかしら)。彼女たちがどうしてそういうスタンスをあえて取ろうとしているのか、ちょっと距離を置けば理解できないでもなかったし、きちんと話をすればお互いに自分とは異なるエンボディメントのあり方を尊重できるようにもなったし。でも、そういう個人的経験もあって、「女性の男性性」にはprogressiveな側面とreactionaryな側面があるということを丁寧に解説したり、さらに進歩的なジェンダー表現の可能性を探る方向として、ブッチやドラァグ・キング、TSやTG、に加えて、「フェムのフェミニニティ」をきちんと付け加えたりしたホルバーシュタムの発言は、とても信頼できるものだった(残念ながら、「フェムのフェミニニティ」の箇所は通訳の人によって省かれてしまった。時間の制約があるから一言一句全部訳せないのは当然だけれど、個人的にあそこは省略しないで欲しかったなあ)。
ホルバーシュタムが「女性の男性性」の反動的な側面に注意を促すようになった(_Female Masculinity_を書いたときには、「女性の男性性」の持つ進歩的な可能性についてもっと楽観的だったのだそうだ)のは、一つには講演のテーマにもなっていたアブグレイブでの虐待写真に見られるように、「女性」に宿ろうが「男性」に宿ろうが問題であるようなタイプの伝統的な「暴力としての男性性」が合衆国において再び顕著になろうとしているからだという。実際、この間の大統領選挙においてブッシュとケリーの「マッチョ度対決」とでも言うべき事態が生じていたことへの批判はそこここで見かけるし、ホルバーシュタム自身、合衆国のゲイコミュニティーで、90年代を通じて薄れてきていた「女性性への恐怖」とでも言うべき気分が、最近になって復興してきた気がするとも言っていた。
同時にホルバーシュタムは、手術による身体改変が以前ほどには困難でなくなってきたことで「女性の男性性」(ホルバーシュタムはfemale masculinityを「メスの身体」において表現される「男性性」という意味で使っている)それ自体が徐々に見られなくなってきていることにも、言及していた。手術やホルモン投与によって身体改変を行うことを望む人がそれを手に入れられるのは勿論重要なことなのだけれども、かといって、男性性が欲しければオスの身体を手に入れなくてはならないとしたら、それはそれで「男性性」にとっても「メス(あるいはオス)の身体」にとっても、不幸なことだ。さらに、そのような動きが上で述べたような「メスの身体、或いは/および、それにくっついた女性性」の忌避の感覚とどこかでつながっていく可能性があるとしたら、それに対しては慎重な注意をともなう明快な批判が必要だろうし、ホルバーシュタムのような「ブッチ系(って何って感じだけど)」の研究者からそのような批判の声があがることの意味は大きい。
そもそも「女性の男性性」が殆ど承認されていない日本の現状にホルバーシュタムのスタンスをそのまま適用することはできない。けれども、自由や権利が拡大されていく期待がある程度の現実味を持った時代を経て、今更なかったことにはできないさまざまな差異の主張と、それにもかかわらず(あるいはだからこそ、なのかもしれないけれど)再び勢いを増している反動的な流れとが、いろいろな形で衝突したり繋がりあったりして、それぞれの関係がより複雑になっているところは、日本も同じだろうと思う。一つの事象の進歩的な側面と反動的な側面との双方を丁寧に見ていく必要性をあらためて感じる。
その点で、「メスの身体をもつ女性」が自分の「女性性」とどう付き合いどう表現していくのか(あるいは個々の表現をどう評価していくのか)という、ある意味伝統的なフェミの課題に、フェム系の人間としても、身体系表象系にかかわるフェミの研究者としても、私は今だからこそいっそう注意深く真剣に向きあわなくてはいけないと思う。
そのほか、まとまらないんだけれども感じたことをいくつか。
#御茶ノ水での講演で「この場に並んでいる大学研究者がみんなパンツ・スーツであることにも見られるように、大学研究者の制服がすでにブッチであり、あるいは<男性的>だといえる」というような発言があった。それ自体は一種のユーモアとしてふと出てきたものなのだけれども、そうやって大学研究者が<男性的>な装いをしている(あるいはそれが「そうよねえ、本当に」というような気分で笑いとともに了承され、承認される)っていうのは、微妙に気になる。勿論パンツスーツなんてものすごくフェミニンに着られるものだし、そもそもフェミニンに装おうがマスキュリンに装おうがそれこそ個人の自由なのだけれども、全体としてフェミ系、クィア系のパネルに列席している人々がいつもみんな「マスキュリン」な装いでありそれがどこかで規範になりかけているとしたら、それって問題じゃないのかしら。実際、実はああいう場に例えばマーメイドスカートのスーツにピンヒールとか、デイタイム用のワンピースドレスに細身のロングブーツとか、そういう格好で出席するのって、浮きそうだし、たとえばジーンズにシャツにジャケットという格好よりも、私だったらちょっと勇気がいるような気がする(実際にそういう格好を好きかどうかとかそれが似合うかどうかという問題は別にしても)。知り合いのフェミの研究者の方で、しょっちゅう、とても伝統的に「フェミニン」な格好をする方が一人いて、たとえばパンツスーツをフェミニンに着こなすとかじゃなくって、胸元にギャザーのよった薄手のワンピースにバックシームのストッキングにピンヒール、みたいな装いで現れたりするのだけれども、あれは彼女の好みの問題でも勿論あるけれども、意図的でもあるように思う。その潔さと勇気に、ちょっと憧れる。
#日本でドラァグ・キングをするときっていうのは、階級(イギリスやアメリカではこれは結構あるような気がする)ではなくて時代を強調することで、ドラァグに必要な差異(つまり、「リアルオトコ」との差異)をつくりだすのだろうか。パフナイトで「インスタント・ドラァグ・グッズ」として希望者に付け髭を貸してくれていたんだけれども、それを使っている人がそろって口髭にしているのが、興味深かった。とりわけ20代、30代の人たちの場合って、同年代の男性をイメージするなら、口髭よりもあごひげとかだと思うんだけれども、なぜかみんな明治・大正・昭和初期のイメージ。ゴーティーとかっていなかったと思う。これはあくまで「ドラァグ」の話なので、日常生活で「男性」の格好をしているブッチだとか、TSあるいはTGの場合は、勿論また別なのだろうけれど。
#同じくパフナイトで、「日本のドラァグ・キング」として話をしてくれた人が、私にはどうしても「すごく格好よいロック系姐さん」にしか見えなかった。言うまでもなく、これは彼女のパフォーマンス(装いや身体の使い方を含めて)が失敗しているということではなくて、私の見る目の側の問題なわけで、「女性の男性性」のある種の視覚的な表れを「とても女性的だ」と感じてしまう傾向、あるいはそこまでいかなくても「男性的」だとは全く気が付かない傾向が、私にはある。こういうのは訓練すれば「男性性」を見てとれるようになるものなのだろうか。そもそも誰かが「男性性」のパフォーマンスをしているとしたらそれは「男性性」として視覚的に認識するべきものなのだろうか。それが可能になるためには、何が「男性的」で何が「女性的」であるかという単一の基準が広く共有されていなくてはいけないわけで、それはなんだか違うと思うのだけれども、かといって「私にはそれは<女性的に>見える」というところにとどまってしまえば、個々人の「男性性・女性性」の認識の枠組みは無批判に温存されかねないわけで、それもそれで違うような。