ちょっと前になるけれども、ケリー民主党合衆国大統領候補が、討論会においてメアリー・チェイニー(チェイニー副大統領・共和党の娘)のセクシュアリティに言及し、共和党側の反発を買う、という
一幕があった。
ケリー候補は「同性愛は選択の結果か」という質問を受けて、「ディック・チェイニーのレズビアンのお嬢さんに同じ質問をすれば、自分は昔からそうだった、そういう風に生まれてきたのだ、と言うでしょう。誰に聞いても、同性愛を選んだわけではない、と言うでしょう」と、答えた。これをとりあげて、共和党側は、政治的な目的のためにメアリー・チェイニーがレズビアンであることを公の場で口にするとは下劣な戦略だ、というような攻撃をしたらしい。
この攻撃自体については、
ここでLog Cabin Republicans(共和党のゲイの政治団体)のトップが言っているように、セクシュアル・マイノリティの権利の拡大をほぼ拒否してきた共和党側がここにきてLGBTの票が民主党に流れるのを食い止めようとした、それこそずいぶん節操のない戦略だと私は思っている。(ちなみに、引用元であるAdvocateの最新号はケリー候補のインタビューを掲載し、
表紙もケリー候補になっている。)
もっとも、確かにここでケリー候補がメアリー・チェイニーに言及したのは、「そっちの陣営にいる人に答えさせろよ」という政治的判断であったのだろうし、そのために個人名を挙げてしまったことは、ちょっと軽率な気がしなくもない。もちろん、メアリー・チェイニーはオープンなレズビアンだからこれはアウティングではないし、そもそも最初に彼女のセクシュアリティを政治的に利用したのは共和党側だったという印象もあるのだけれど、相手と同じ土俵に立つことが必ずしも正しいとは思えない、という意味で。
ただ、ここでケリー候補側が「そっちの人間に聞けよ」戦略に出たのは、「ホモセクシュアリティは生まれつきのものか、それとも選択によるものか」という議論が、扱いを間違えると厄介なものになるからだというのは、間違いないだろう。同性愛が「選択の結果だ」と言いたいのは保守派の側であり、この議論はそのまま、「彼らは好きであんなことをしているだけで、その気になれば<まともに戻る>ことができる(だから同性愛者の権利を社会として擁護する必要はない)」という発想につながる。逆に「生まれつき」であれば、生まれつきであって自分にはどうしようもない属性を根拠に差別されるいわれはない、ということになる。もちろん、宗教的保守派からすれば、「生まれつき」であるということはそのまま「神の創造の結果」ということになるわけで、同性愛者を非難すればその創造者を非難するに等しいことになってしまうから、これは到底受け入れることはできない、ということでも、ある。
いわゆる「保守派」が「セクシュアリティは選択の結果だ」と言い、いわゆる「リベラル」が「セクシュアリティは生まれつきだ」と言う、ある種奇妙な構図ができあがっている。
「同性愛は生まれつきのものだ」という主張自体、「同性愛なんて、勝手にやっていることだろう/変えることができるだろう、だから差別されたって文句を言うな」という主張への反論として、唱えられてきたものだ。実際のところ、同性愛にしたって異性愛にしたって、どんなセクシュアリティにしたって、それが必ず「生まれつき」のものなのかどうかは、分かっていないのが現状だろう(その意味で、ブッシュ大統領が同じ質問に対して「私にはわからない」と答えたのは、「同性愛なんて勝手に選んでやっていることだ」とはさすがに言いかねて言葉を濁しただけの理由であったわけだけれども、結果としては「正解」に近い答えになってしまったのが、なんとも皮肉だ)。
私は、分からなくて一向に構わない、と思う。
「同性愛者」に限って言っても、自分は生まれつきゲイ・レズビアンであり、異性には惹かれたことがないし、異性と性行為をするなんて考えられない、という人はたくさんいる。それと同時に、昔は異性に惹かれたこともあるけれども今は同性にしか惹かれないという人もいる。TGや性別再適合手術前のTSのパートナーがいる人には、パートナーの身体(あるいはジェンダー)が変わってしまったら困るという人もいれば、結果として異性をパートナーにすることになっても相手への気持ちは変わらないし、それでも自分はゲイ・レズビアンだ、という人もいる。同性愛者にしても異性愛者にしても、それが<必ず>生まれつきのものであり、変わらないものでなければならないとしたら、そのどちらからも弾き出される人がたくさん出てきてしまうだろう。
ここでは、「アイデンティティ」と「欲望」とがごちゃごちゃになっているということが問題をややこしくしているのだが(同性に惹かれるからと言ってゲイ・レズビアンというアイデンティティを持つというわけではない。ゲイ・レズビアンという「アイデンティティ」は、どこかに選択の要素、選択と言うのに語弊があるのならば、意識的な引き受けの要素がなければ、成立しないだろう)、あくまでも問題を「欲望」、つまり、「自分は<同性>に惹かれるのか<異性>に惹かれるのか」というところに絞ったとしても、その欲望が「生まれつき」なのかどうかが、それ程重要なことだろうか。
自分がある特定の属性を持つ人間に惹かれる理由というのは、個々人が勝手に自己分析して楽しむ分には、良い暇つぶしになるかもしれない。けれども、「生まれつきなのか選択なのか」という原因論は、本当にもうやめるべきだ。
理由の一つは、もちろん、この原因論がそもそも「同性愛は望ましくない」という立場からしか出てこない発想だということ。「のぞましくないけど、生まれつきだから仕方ないじゃない」あるいは「勝手に選んで望ましくない人間になっているのだから非難されて当然」、この議論はその二つの選択肢しか用意してくれない。
そしてもう一つ、「生まれつきだ、だから変えることができない、だから批判されるべきではない」という議論が、私は嫌いだ。この議論の根底にあるのは「生まれつきのものは批判を受け付けない正当性がある(しかし生まれつきでないものには正当性はない)」という発想で、それはちょっとどちらの側面から見ても、どうも問題もあるし、無理もある。生まれつきのものは全て無批判に正当性を主張できるのか、どうして生まれつきではないもののうち、ある特定のものは正当性を獲得し、他のものはそれを与えられないのか、この議論はそういう疑問を封じかねない。「生まれつきでなくても差別されるいわれはないやい!」という当然の主張を見えにくくしかねない。
もちろん、「自分は生まれつき同性/異性にしか欲望しない(あるいは自分の欲望は生まれつき性別とは無関係に対象を選択する)」という人はいるだろうし、それはそれで一向に構わない。けれどもそれが「同性愛は/異性愛は/セクシュアリティは、生まれつきのものだ」という形になってしまうと、それは、「自分は生まれつきだから本当の同性愛者/異性愛者だ」「選択の結果としての同性愛/異性愛はうんさんくさい(だからまあ差別されても、ね)」といった、分断化とゲットー化、あるいは逆転したエリート主義につながる可能性がある。
実は、同じ理由で、私は「性的指向」という言葉の流通の仕方にも、すっきりしないものを感じている。
たとえば、同性愛は「嗜好」ではなく「指向」であると主張すること、それにはある種の戦略的な効果があったし、それが必要な場合があることも理解できる。私も、全くこういう話に馴染みのない相手と話をするときには、まずはそのスタンスから入ることが多いし、「セクシュアリティ」なんて言葉をほとんど聞いたことがないような学生に授業をするときも、この二つは違うんだからね、間違えないでね、という話をする。
ただ、その上で、たとえば「同性愛は嗜好じゃない、指向なんだ!豆腐は好きだが納豆は嫌いだというような<嗜好>とは話が違うし、年増は好まんが若い子には萌える、みたいなものと一緒にするな!ロリだのSMだのという変態性嗜好と混同するな!」という主張をウェブ上で発見したりすると(しかもこれがちょくちょく発見できたりするのだが)、ちょっとたじろぐのだ。
指向ならいいけど、嗜好ではいけないのだろうか。
生まれつきのものは正しいけれど、後から身に着けたものは正しくないのか。
同性愛は指向だけれども(性別で区切るからなの?)、SMだのロリだのその他もろもろは、嗜好なのだろうか。
あちらは変態だが、こちらは違うということなのだろうか。
どうして?
オトコでもオンナでもとにかく身体のごつい人が好き、とか、オンナらしいオトコかオトコらしいオンナが好き、とか、それは嗜好であって指向ではないのだろうか。
どうして?
豆腐は好きだが納豆は食えないように、禿げは好きだが髭は勘弁とか、ペニスはキライだがヴァギナは好みだとか、自分より色の濃い肌は好みだが自分より色の薄い肌はいやだとか、指の長いのは絶対に駄目だけれども首は長くなくては駄目だとか、縛るのは萌えるが縛られるのは御免とか、そういうことではいけないのだろうか。
どうして?
そして、指向は重要だが、嗜好はどうでも良いことだ、ということなのだろうか。
どうして?
当然のことながら、豆腐が好きだろうと納豆が食えなかろうと、禿げを愛でようと髭を憎もうと、色黒を愛そうと色白を避けようと、そのことで差別をされることは(今のところは)ないだろうから、同性愛とは事態の深刻さが違うのは、言うまでもない。つまり、現状認識として、これらの「嗜好」をそれぞれ全て同じものなんだから気にするなよ、ということは、もちろん、できない。「指向」という形でアイデンティティを立てていくことの有効性も、理解できる。
けれども、そのような現状への異議申し立ては、特定の嗜好を「指向」として特権化する方向よりは、特定の嗜好だけが差別の根拠とされうる制度を批判する方向を、とるべきではないだろうか。「これはあのような嗜好とは違うのだから尊重しろ(ああいう嗜好はまあ個人の勝手だからどうでもいい)」という形をとるよりは「これはあのような嗜好と同じなのだから文句を言うな(ああいう嗜好に文句をつけていないだろう)」という形をとる方が、良くはないだろうか。「これは変態嗜好とは違うのだから差別をするな」というよりも「これもあれも、そしてあんた達のそれも、全部変態嗜好なのだから、これだけを変態嗜好だと決め付けて差別をするな」という方が、効果的ではないだろうか。クイア・ムーブメントというのは、基本的にはそういうことではなかったのだろうか。
そして、嗜好であれば、それが生まれつきか後から学んだものかそれとも意図的に選択したものか、全ての嗜好について同一の答えが出るわけがない。子供の頃は受け付けなかったのにある日突然好きになる身体感覚もあるだろうし、子供の頃に駄目だった音楽でいつまでも好きになれないものというのもあるし、あるいは子供の頃キライだったけれども頑張って身につけているうちにいつか好きになってしまう色だって、あるかもしれない。キライじゃなかったけれどもある日なんらかの理由で食べるのをやめるものだって、あるだろう。
はっきりしているのは、どの変化がおきるか、あるいは起きないかは、自分で選択できることではない、ということ。嗜好は変わるかもしれないし、必ずしも生まれつきではないかもしれないけれども、変わらないこともあるし、自分で気が付いたらそうだったという意味で「生まれつき」と言うのがふさわしいことだってある。
そして、さらにはっきりしているのは、受けつけないもの(あるいは受け付ける気がないもの)を無理やり押し付けられたり、根拠もなくその嗜好を制限されたり、それが原因で差別されたりするのは、どう考えても正しくない、ということだ。(もちろん、その「嗜好」が誰かを傷つけたり、明らかに不当な抑圧を実行する、あるいはそれに加担する場合には、やはりその「嗜好」は制限されることになるだろう。たとえば、当事者間の同意のあるプレイではない実際のレイプを「嗜好」として容認することは、できない)。
で、何が言いたいのかというと。
私は豆腐も納豆も好きですが、豆腐は木綿が、納豆はひきわりではない小粒の国産の余りニオイの強くないものが、いいです。あぶらげはキライです。禿げも髭も別にどうでもいいです。ペニスにもヴァギナにも肌の色にも首や指の長さにも執着はありません。縛るのは不器用なのがばれそうで嫌で、縛られるのはイメージがわきません。嗜好は色々あり、中にはもう何十年単位で付き合っている嗜好もありますが、生まれつきかどうか自信はなく、変わる可能性もなくはなく、指向はあるのかどうか分かりません。