前回のエントリーについて、反論や批判もあるだろうなと思っていたのだけれども、意図的に歪曲して批判されているように感じるところのある御批判があったので、反論を。Hodge's Parrotより
、『 ジェンダーフリーを曲解する人、クイアポリティックスを曲解する人』。こちらのブログは時々拝見していて、私とはいくらか立場が違うのだけれども、敬意をもって拝読していたので、なおさらこのまま気が付かないふりをして逃げをきめこむのもどうかと思ったり。
(万が一Hodgeさんが再び訪問される場合を考えて、あらかじめ「立場の違い」の一番大きなところを述べてしまうと、私は「精神分析理論」を一括りにして害あれども益なし、とは考えていない。言うまでもなく、これは「精神分析理論」がその成り立ちから現在にいたるまで、様々の、そしてしばしば重大な問題を抱えていることを否定するものではないし、フェミニズム/クイアスタディーズが常に精神分析理論に依拠しなくてはいけないとも考えない。けれども、ジェンダーやセクシュアリティ、さらにアイデンティティや主体(あるいはその不可能性、ですか)の問題の考察において、とりわけそれらの制度の文化的側面や表象、さらにはそれに関係する個々人の「精神(psycheの訳語はこれでいいのでしょうか)」の機能や構成の歴史を考える際に、精神分析理論を超える分析ツールは流通しておらず、従って精神分析理論は批判的に利用する価値がある、とするバトラーの議論に、私は賛成する。さらに、「やおい」論については、私はこれは完全に門外漢なので明快なことはいえないのだけれども、ジャンルとしての「やおい」全般と、同じくジャンルとしての「ポルノ」全般を、どちらもジャンルとして否定することは、少し強引ではないだろうかとは思う<もしジャンルとして否定するということではないのだったら私の誤読です。申し訳ありません>。)
あと一つ。御批判も御反論も喜んでお受けいたします、なのだけれども、エントリー丸々使って、しかも書いたことをかなり恣意的に切り抜いて批判なさるのだったら、せめてモト記事である私のところに、一言「お前の言ってることはめちゃくちゃだよ。こっちに反論があるから、顔洗って読め!」とか、連絡をいただけると嬉しいです。
で、反論です。
まず、Hodgeさんは私の議論が「同性愛を都合よく<利用>」している「お気楽なフェミニズムである」と批判なさっているのだけれど、そもそもこの議論が何の目的のために「同性愛」を「利用」しているとお考えなのか、そこが私には良く分からない。「フェミニズムの主張のために」ということなのかもしれないけれども、私がここでしていた主張が、どういう「都合」のためにどのように「同性愛」を利用している、とお考えなのだろうか。「都合よく利用している」というのは、「同性愛」を、なんらかの「例」や「素材」として、「同性愛」を含まない何かの利益のために、勝手に誤った形で流用する、ということなのだと思うのだけれど、私の主張のどの部分が、「同性愛」を使って、そのカテゴリーに含まれうる人々とは全く関係のない利益を追求しているものだとおっしゃるのか、以下の反論をお読みいただいた上でご指摘いただければ、嬉しい。
さて、Hodgeさんのおっしゃるとおり、
問題とされるのは「不公平な二項対立」であり、同性愛であることが、いかに社会の中で──不利に──機能しているか
であることは、私も全くその通りだと考えている。
その上で、私の主張しているのは、不公平な二項対立に対してその不公平さを解消する試みと同時に、その二項対立そのものを問い直す試みを行うべきだ、ということである。言葉を変えるなら、フーコー的な歴史的構築性や権力の分配の分析と同時に、デリダ的な脱構築の基本も忘れるべきではない、ということだ。勿論、クイア・スタディーズ(あるいはアクティビズム)にかかわっている人々の間で、デリダ的な手法に疑いの目を向ける人々も多いことは承知のうえで、それでも私は「クイア・スタディーズ」の画期的な側面の一つは、原理的には殆ど不可能であるような、フーコーとデリダの理論の接続を試みたところだと考えているし、それが政治的にも大きな効果を持ってきたと思っている。
繰り返しになって申し訳ないのだが、私は、同性愛/異性愛というきわめて抑圧的な二項対立が存在することを否定しているのではない。そして、私は、この二項対立が抑圧的であるのは、それが一方の項(「同性愛」)への激しい差別やフォビアを維持させているからであると同時に、それが、そもそも二項(同性愛/異性愛)の対立ではありえないもの(セクシュアリティ)を、「正しい項」(異性愛)と「正しくない項」(同性愛)という二項に強制的に振り分けるからだと考える。従って、この二項対立への抵抗は、前者の抑圧と「同時に」、後者の抑圧に対してもなされるべきであり、その意味で、それぞれの項の純化につながる主張(「同性愛/異性愛は生まれつきである」「同性愛/異性愛は選択されるものである」「同性愛/異性愛は<指向>だが、たとえばSMやフェティッシュは<嗜好>であって、違うレベルの問題である」などはこのような主張に転化しかねないと私は考える)よりも、それぞれの項の純粋性を侵犯する方向を目指す主張の方が、有効ではないかと、そう思っている。
そしてその点から、「豆腐や納豆」や「禿げや髭」について私が書いた最後の段落をふまえて、Hodgeさんがこう書いていらっしゃるのは、納得がいかない。
いったい、「豆腐」が好きかどうかで、ある人たちが「犯罪」とされ、逮捕され、殺されたことがあるのだろうか。「禿げ」や「髭」の嗜好で、ナチスの絶滅収容所で虐殺されたことがあるのか。精神分析によって「病者」とされ、<矯正>の対象とされ、挙句の果てに自殺に追い込まれたことがあるのだろうか。ヘイトクライムの問題には、いったいどう考えているのだろうか。
その上の部分、件の例を持ち出した直後に、私は、こう書いたはずだ。
豆腐が好きだろうと納豆が食えなかろうと、禿げを愛でようと髭を憎もうと、色黒を愛そうと色白を避けようと、そのことで差別をされることは(今のところは)ないだろうから、同性愛とは事態の深刻さが違うのは、言うまでもない。つまり、現状認識として、これらの「嗜好」をそれぞれ全て同じものなんだから気にするなよ、ということは、もちろん、できない。
現状として、これらの「嗜好」が「嗜好」として同じ扱いを受けていない、それは言うまでもないことだ。現状としては、豆腐が好きか納豆が好きかという問題と、同性に欲望するか異性に欲望するかという問題は、勿論全く違う。しかも、実際に抑圧を受けている人間に「それは嗜好なんだから気にするな」と言うとしたら、それはそれ自体が立派な抑圧だ。その点については、私は明確にしたつもりだ。
けれども、その上で、「同性愛/異性愛は指向であり、嗜好ではない、他のものとは違う」というレトリックを用いることに、慎重でありたい、と言っているのだ。なぜならそれは第一に、「同性愛/異性愛」という二項を特権化し、この二項対立を補強するからであり(そして結果として、抑圧される項である「同性愛」にとってもそもそもその二項のどちらからも弾き出される諸々の存在にとっても問題であるはずの「異性愛規範」の強化につながるからであり)、第二に、「嗜好」として認識される「それ以外のもの」に対して、異性愛・同性愛のどちらもが抑圧的に働くことにつながるからだ。
私が主張したのは「異性を好きになるのも同性を好きなるのも、禿げを好むのも色白を好むのも、全て同じ嗜好なのであり、くよくよ悩んだり気にしたり怒ったり主張したりするな」ということではなく、「それが全て同じ嗜好であってよいはずなのにそれが同じ嗜好になれない現状がある。何よりもその現状に対して、憤るべきだ(それを同じ嗜好ではないと主張するのではなくて)」ということだ。これ以外の「嗜好」はこれと同じ差別を受けたことがないのだからこれは別のものなのだと主張するのではなくて、別のものでなければならない正当な理由はどこにもないのに、これだけが差別を受け続けてきたことの不当性を糾弾したい、ということだ。同性愛は(異性愛と同様に)「指向」であり「必ず生まれつきのもの」であり特権的な地位にあるのだと主張するのではなく、同性愛が、ほかの嗜好、そして何より異性愛と同様に、「嗜好」であり続ける、その権利をこそ要求すべきだ、ということだ。
それから、この部分。
「豆腐」や「禿げ」のレトリックを出すなら、僕は、「人種」「民族」、あるいは「同和差別」というレトリックを持ち出したい。
いったい、人種という「生まれつき」の差別が解消された(解消されたのか?)のは、いつなんだ。「神の創造の結果」である黒人やユダヤ人が隷属された「事実」は、「なかった」のか? ほとんどの「差別」は「生まれつき」から「生まれたもの」ではないのか? 黒人と白人の「間」に生まれた子供が、白人ではなくて、黒人に「分類」されたのは、なぜか。ナチスが問題にしたのは、それこそ「生まれつき」ではなかったか?
これは私の言葉足らずの部分があったと思うので、補足したい。<同性愛については>、歴史的に、生まれつきであるということが、差別や矯正に抵抗する言説として用いられてきたのであり、宗教的な保守派はこれを「神に逆らう(つまり生まれつきではなく、意図的に神に背く)」行為として解釈してきた、ということだ(同性愛者が「非難」されると書いたのは、この理由による)。もちろん、「生まれつき」を理由にした差別は、人種や(時代や場所によっては)階級、さらに勿論、ジェンダーにおいては、いくらでも行われている。ただ、この場合の差別の根拠は「生まれつき劣る(従って、「劣らない」人間が、彼らを従属させ支配するのは、神のご意思である)」というレトリックが用いられてきたように思う。だからこそ、たとえば人種や階級やジェンダーは、それ自体が「犯罪」とされることや「矯正」を試みられることがなかったのではなかろうか(勿論、人種それ自体が犯罪であるように扱われる例は枚挙にいとまがないが、同性愛が犯罪とされたのと同じ意味で人種が犯罪とされたことはないように記憶している。間違えがあったらご訂正いただきたい)。
そしてこの意味でも、「生まれつき」という言説は私にはやはり危険があると思える。「生まれつき」を主張したとしても、それは差別の解消にはならないばかりか、「生まれつきで、変えがたく、<劣って>いる」という主張と同じレベルで争うことになりかねない。
さらに、ここで「人種」(あるいは「ユダヤ人」「同和差別」)を「生まれつき」として引き合いに出すことに、私は反対だ。「人種」という区分が「生まれつき」のものではなく、非常に恣意的なカテゴライゼーションをもってしか維持できない概念であるということは、すでに指摘されて久しい。ゲイ・レズビアンスタディーズにせよ、クイア・スタディーズにせよ、さらにはフェミニズムにせよ、しばしば「人種という比喩」を用いて抵抗の言説を組み立ててきたのは事実だが、これに対しても、それこそ多様な文脈を無視して「人種的差異」を「利用」することに対して、明快な批判がなされてきている。ここで、人種や民族や同和差別という例を出して「ほとんどの<差別>は<生まれつき>から<生まれたもの>ではないのか?」と問う時、Hodgeさんが問題にしているのが「<生まれつき>という言説から差別が生み出される」ということなのか、それとも「<生まれつき>であっても差別は生み出される」ということなのか、そこが私にはちょっと判断しかねるのだが、前者であれば私の主張と大きく食い違わないように思うし(つまり、「生まれつき」という主張のもとに差別が正当化された歴史がある、ということ)、後者であれば、上に述べたような理由で、この例それ自体に私は異議を唱えざるをえない。
そして、あらためて言うまでもないだろうが、上の議論は、「生まれつき」であれば差別をして良いのだから、生まれつきだと主張するのはやめよう、ということでは、勿論、ない。むしろ私が主張したいのは、「生まれつき」であれ「選択の結果」であれ「そのどちらか分からない状態」であれ、とにかく根拠を作り出して抑圧を正当化することこそが問題なのだから、「抑圧の根拠」をではなく、そもそもの「抑圧の存在」を愚直に批判するべきだ、ということである。
従って、
「セクシュアリティは選択の結果だ」ということは、それはつまり、「自己決定」「自己責任」というネオリベラリズムの枠組みに回収されることになる。
というご指摘について、私は必ずしもそうではないと思う。そのように逆手をとられる可能性は、勿論あるだろう。それでも、自分のセクシュアリティは選択の結果だと言う人がいるならばそのセクシュアリティは尊重されるべきであり、「社会がすでにそれを差別しているのにそれを選んだのだから、お前の自己責任だ、お前が悪い」と言う人があるとしたら、その物言いこそが批判されなくてはならないのは、言うまでもない。
さらに、これは大事な点だけれども、私自身は「セクシュアリティは選択の結果だ」とは一言も言っていないし、そう考えてもいない。「選択の結果でもありうる」とは述べたけれども。「生まれつきか」「選択の結果か」というそれこそ二項対立的な原因論をやめるべきだ、と言ったのは、そういうことだ。個々の人が、自分のセクシュアリティを選択の結果だと認識していようが、あるいは生まれつきだと認識していようが、それはどちらでも構わないし、構わない状態であるべきなのだ。(勿論、「マジョリティ」であることに疑問を抱かない人は、自分がそのどちらであるとも認識していないだろう。そもそも「原因」を探求する必要がないからだ。マイノリティのみが原因を探すことを要求されるというこの事実もまた、もう「原因論」とはマイノリティの側から手を切ってしまおうではないか、と、考える理由の一つだ。)現状として、セクシュアル・マイノリティの中にその両者が(そしてそのどちらでもない人も)存在している以上、あれかこれか、という議論をすることは、そのいずれに転んでも抑圧的に働くだろう。
それから、さらにわからない点。
「生まれつき」が重要でないなら、「在日外国人」の問題はどうなるのか。歴史的事実を無視して、日本にいる「外国人」を、すべからく「外国人」としての「アイデンンティティ」の<選択>を迫る「すっきりした議論」が良いことなのか。「問題がややこしくなる」のは、「当事者」だけの「問題」に帰せない。歴史的・社会的に「構築」された「生まれつき」が議論にされなければならない。
「アイデンティティの選択を迫るすっきりした議論」とは何をさしているのだろうか。
私は「アイデンティティの選択」を迫ることをよしとした議論は一切していないし、「すっきりした議論が必要だ」とも主張した記憶はない。「問題がややこしくなる」という点についても、この引用元では、私は「(セクシュアリティが生まれつきか選択の結果かという議論が)アイデンティティと欲望という二つをごちゃごちゃにしているので、問題がややこしくなる」と書いたのであって、それが「当事者の問題」だとは微塵も考えていないし書いてもいないのだが。「歴史的・社会的に構築された生まれつき」については、私はまさにそれを問題にする必要があるからこそ、「生まれつき」という議論を安易に利用するのはどうかと考えているので、ここで「生まれつき」が重要だという議論になる流れをフォローし損ねている。それとも、Hodgeさんは「歴史的・社会的に構築されたもの」こそを「生まれつき」と解釈なさっているのだろうか。そうであれば、私も「生まれつき」というのは実際にはまさにそういうものだと思うけれども、ただ、それは、セクシュアリティが「生まれつきか選択か」という議論で通常使われている「生まれつき」とは、その用法がかなりずれてくるのではないかと思う。
だいたい、「私は私である」という「アイデンティティ」は、「私は私で<ありたい>」という「欲望」の「契機」があるのではないか。
これは私の言葉の不足であり、お詫びして補足したい。「アイデンティティと欲望をごちゃごちゃにしている」というのは、「セクシュアリティ」という言葉で、「私はあのような対象に欲望する」という部分と、「私は自分をこのようなものとして認識する」という部分とが、区分なく用いられている、ということを指している。勿論、この二つは、それこそ精神分析理論で言えば、決して明確には区別できないものではあるのだけれども、「私がどのような対象に欲望するのか」「私がどのような対象についてその欲望に基づいた行動を起こすのか」「私が自分をどのような対象に欲望する存在として引き受けるのか」などは、「選択」の可能性の度合いに大きな違いがあり、このような議論においてはとりあえず区別しなければ考えられないと思う。
生まれつきの同性愛と、選択としての同性愛。そもそも、それを「決定」するのは、いったい「誰」なんだ。当人の「自己申告」以外にありえない。チェイニーの娘の例は、「生まれつきのレズビアン」であることを「自己申告」したのに、その「自己申告」が「否定」されることがありうること、それが「承認」されないことが「問題」なのではないか。
そう、自己申告が否定されることを、批判しなくてはならない。「生まれつきのレズビアン」という自己申告も、「選択によるレズビアン」という自己申告も、どちらも承認されなくてはならない。「今はオトコと付き合っているけれどもレズビアン」という申告だって、場合によっては「私はオトコだけれどもレズビアン」という申告だって、承認されなくてはならない。「セクシュアリティは生まれつきだ」という言説はそれを不可能にするという点で問題だと、繰り返しになるけれど、私はそう主張しているのだ。
ちなみに、メアリー・チェイニーはこの問題について、自己申告していたのですね。申し訳ありません。私が見た範囲では、彼女はこれについてはコメント拒否を貫いているということだったので、そこには触れませんでした。不勉強をお詫びします。
ならば、「異性愛」というものを「同性愛」という「言葉」抜きで、どう表現するのか。「同性愛」が「異性愛」の「代補」であるからこそ、「異性愛」が可視化されるのではないか。「正常」を定義するのに、まず「異常」を定義しなくては、「正常」は存在しない/できない。
ええと、これはまさに同感(同性愛が異性愛の代補であるからこそ異性愛が可視化される、というのは、ちょっと飛躍があるとは思うけれども、でも流れはわかります)。で、だからこそ、「異性愛/同性愛」を「性的指向」という言葉で特権化することには私は反対なのだが。それから、私は「同性愛」という「言葉」を使うなとは主張してはいないので、どうしてここで「ならば」と反論が続くのかが、わからない。このあたり、Hodgeさんの論理を完全に見失っているので、ご教授いただければ幸いです。
では、「異性愛」は「嗜好」なのか。しかし、「異性愛」が「嗜好」に「成り下がった」とき、まさしくそのときに、今度は「良い嗜好」と「悪い嗜好」が弁別されるのではないか。
勿論、異性愛も嗜好なのだ。それがまるで「嗜好以上」のものであるかのように振舞っていることが問題であり、どうやってその振る舞いが可能になっているのかを批判的に考察することこそが必要なのではないのだろうか。
そして「良い嗜好」と「悪い嗜好」の弁別は、以前のエントリーで一度述べたように、おそらく最後まで消え去ることはないだろう。そしてそれが完全に消え去るのが正しいのかどうかも、私には分からない。しかし「良い嗜好」と「悪い嗜好」の弁別は、ジェンダー化された対象選択のラインのみに従うとは限らないだろうし、いくつもの線を引き、いくつもの線をめぐって係争する方が、「嗜好/指向」という階層分けを承認するよりもましだと、私は考えている。
これは、「精神分析」がかつて行った「矯正/治療」を「復活」させないだろうか。「多形倒錯」という愚劣な理論を補強しないだろうか。「全ての嗜好について<非同一>な答え」が、実は、エディプス的「<同一>の答え」に、一挙に、<反転>しないだろうか。そのとき不可視で特権的な地位を謳歌するのは「異性愛」<だけ>なのではないか。
これも、引用の直後に、私は明確に、次のように書いたはずで、それを無視して話をすすめるのは曲解ではないだろうか。
はっきりしているのは、どの変化がおきるか、あるいは起きないかは、自分で選択できることではない、ということ。嗜好は変わるかもしれないし、必ずしも生まれつきではないかもしれないけれども、変わらないこともあるし、自分で気が付いたらそうだったという意味で「生まれつき」と言うのがふさわしいことだってある。
そして、さらにはっきりしているのは、受けつけないもの(あるいは受け付ける気がないもの)を無理やり押し付けられたり、根拠もなくその嗜好を制限されたり、それが原因で差別されたりするのは、どう考えても正しくない、ということだ。(もちろん、その「嗜好」が誰かを傷つけたり、明らかに不当な抑圧を実行する、あるいはそれに加担する場合には、やはりその「嗜好」は制限されることになるだろう。たとえば、当事者間の同意のあるプレイではない実際のレイプを「嗜好」として容認することは、できない)。
矯正や治療が「できない」ことがある(というより、「できる」ことは殆どない)、これは当然のことだ。ただし、大切なのは、たとえ矯正や治療が可能であったとしても(あるいは可能になったとしても)、それを強制するのは不当なことだ、といい続けることではないのか。
ちなみに、この部分に対して、「根拠は産出されるのであり、根拠もなく嗜好が制限されることはない」旨の反論をいただいたのだが、それについては、全くその通りであると思う。「根拠もなく」ではなく「正当な根拠もなく」というべきだった。ここで「正当な」というのは極力「正義」にのっとった、という意味であり、私はこの部分を全面的に削除することはできないと考えている。上でも書いたとおり、たとえば、「当事者間の同意のあるプレイではない実際のレイプを嗜好として容認することは、できない」と、私は思う。