長すぎてはじかれてしまいましたので、下のエントリーの続きです。下からお読みください。
そうだろうか。これでは「クイア・ムーブメント」というのは、異性愛の「否定神学」に手を貸しているだけではないか。これでも<ない>、あれでも<ない>、むろん同性愛でも<ない>。すなわち、すべての「嗜好」を「羅列/有徴」して、そしてその「否定」によってしか「表現」されないもの……それこそ異性愛という「(不可視の)神の地位」を補償する。
ええと・・・。だから、異性愛は「嗜好」なのです。
異性愛を、有徴にしようということ。さらに、対象のジェンダーによる二項対立的なセクシュアリティの特権性を、問い直そうということ。それが、クイア・スタディーズのしてきた(し続けている)作業の重要な一部であると私は思うし、「同性愛は指向であって嗜好ではない」と言うことは、「同性愛は(異性愛同様に)指向であって嗜好ではない」と言うことであり、この作業に逆行するのみならず、Hodgeさんのおっしゃっている
「省略値」を「異性愛」に「設定する権力/横暴」
を補強するものに他ならないと思うのだが。
そして、最後に、ここ。
そして、クイア理論も含めて、僕が疑問に思うのは、こういった「理論(偏重)」が、実生活者の<経済性>の問題に、いかに「寄与」しているかだ。様々な「エイジェンシー」を立ててシンボリックな「モデル」で議論を行っているが、それが通用するのは、大学の教室だけなのではないか。はっきり言えば、視野が狭い。SMの<嗜好>を持つ<男女カップル>が、アパートやマンションを借りるのは、用意だ。どんな<嗜好>を持っていても<男女カップル>ならば、<結婚>もできる。税法上の優遇も受けられる。養子も取れる。
ええと、理論偏重という批判は非常に容易なものだけれども、私が「同性愛/異性愛」のみを「必ず生まれつき」の「指向」として「特権化」することに反対するのは、理論上の理由にのみよるのではない。このような発想が、「同性愛者」あるいは「クイア」のコミュニティーに存在している多様なジェンダーやセクシュアリティのあり方、アイデンティティの立て方(それこそ「自己申告」)に対して、実際に抑圧的に働くから、問題だと言っているのだ。「同性愛は(異性愛と同様)必ず生まれつきであり、したがって指向である。そしてそれゆえに他のセクシュアリティとは違う」ということによって、たとえば意思的に同性愛を選択したゲイやレズビアン、あるいはバイセクシュアル、あるいはそれ以外のセクシュアリティの持ち主、あるいはジェンダーを変更し、けれどもパートナーを変更しないゲイやレズビアンを、セクシュアリティの政治から排除し、それこそ抑圧を不可視化してしまうこと、それは「理論」の問題であると同時に現実の実生活上の問題に他ならないと、私は思う。そもそも、そのような問題に対処していく試みとして、「女性」のみをターゲットとしていたフェミニズムや、「ゲイ」「レズビアン」だけをターゲットとしていたゲイ・レズビアン・ポリティックスから、クイア・ポリティクスという形が生み出されていったということを、どのようにお考えなのだろうか。
勿論、法的に認められる「男女」カップルであれば、結婚もできようし、税法上の優遇も受けられようし、養子も取れよう。けれども、「男」「女」は法的にそれと認められている人だけをさすわけではないし、その中で自らを「生まれつきの同性愛者」と認識しない人も、いるだろう。それをどう考えるのか。「視野が狭い」のはどちらなのか。
だからこそ、たとえば「同性愛」という「嗜好」が(たとえば「ジェンダー・クイアな<女性>が好き」という「嗜好」と同様に)差別される制度に対して、「だから同性愛は嗜好ではない」という主張によってではなく「嗜好によって差別をするな」という主張によって抵抗すべきだと、私は考えるのだ。繰り返しになって申し訳ないけれども。
以上、どの部分をとって、Hodgeさんのおっしゃる「クイア・ポリティックス」を「曲解」していると批判なさっているのか、聞かせていただければ幸いです。
それから小さいことですが。
SMは「嗜好」である。
よって、「異性愛のSM」という「表現」は「意味」を為す。
もし、「同性愛」が「嗜好」ならば、「異性愛の同性愛」という「表現」も可能だ。これは「異性愛のSM」と同じ文型だ。しかしこれは、いったい、どういう「意味」を持つのか、だ。
まず、「異性愛のSM」という表現と「異性愛の同性愛」という表現は、「異性愛」が「異性のみに欲望し、同性に欲望しないこと」を、そして同性愛が「同性のみに欲望し、異性に欲望しないこと」を意味するのであれば、全く別のものです。その場合「異性愛の同性愛」は、むしろ「トップのボトム」であるとか「髭嫌いの髭好き」であるとかと同じ構造になります。「異性愛」と「同性愛」、「髭嫌い」と「髭好き」は、一つの分類法に従ったお互いに排除しあう二項だと捉えられているからです。「異性愛のSM」というのは「同性愛の髭好き」と同様に、別の分類法に従った二つのカテゴリーの併置であり、これを互いに排除しあう二項の併置と同等に考えることは、論理上無理があります。勿論そんなことは分かってわざと書いていらっしゃるのでしょうけれども、そういうトリックは、ずるいですよ。
さらに、「トップのボトム」が実は成立しうるように、「異性愛の同性愛」も、この二項は完全に常に明確に排除しあえないので、実際には成立します。自分はクローゼット・ヘテロだよ、と言うジョークを飛ばすTGよりのブッチ・ダイクの友人は、ジョークの中で多少の実感を込めていたのだと私は感じますし(自分がオトコに欲望するということではなく、自分はダイクでもあるけれどもどこかオトコでもある気もするからそういう意味ではヘテロなのさ、という意味で)、長年連れ添ったブッチ・ダイクがTGやTSとして変化を遂げていく時に自分のアイデンティティをどのように認識するのかということは、フェムにとって大きな問題になっていて、その中には「自分はあくまでもレズビアンだ」という人もいれば「自分はヘテロセクシュアルな関係を持つホモセクシュアルだ」と主張する人もいます。バトラーの有名な例を使えば、「私は自分のボーイがガールであることが好きなの」というレズビアンは、自分のセクシュアリティを「異性愛の同性愛」と呼ぶこと「も」できるということです。これは「理論」ではなく、「実生活者」の自己認識、アイデンティフィケーションの問題です。それをありえないとする主張は、何を意味するのか、ということです。
(追記:10.26 0:29 一応投稿前に確認したつもりだったのですが、Hodgeさんは何度か細かい手直しをされているようで、引用箇所が現在のものと多少違っている可能性があります。内容にはそれほど響いていないと思いますので、ご容赦ください。)