Annette Schlichter. 'Queer At Last? Straight Intellectuals and the Desire for Transgression.' (_GLQ_ Vol.10-4 (2004): 543-64)
微妙にHodgeさんと交わした議論にも絡んでくるような気がするテーマでもあり、きちんと考えをまとめられていはいないのだけれども、とりあえずメモを残しておくことにする。
Schlichterは、Straightの研究者がqueer theoryに参入していく際の問題点を丁寧に指摘しつつ、このような参入を否定するのではなく、straightな(あるいはheteronormativeな)研究者にとってのクイア・スタディーズとは、straightというアイデンティティと主体とが構築される心的・社会的・文化的制度の分析を通じてヘテロ規範を撹乱しstraight性をつくり変える試みとして展開されうるだろう、と主張する。
基本的に、LGBTのみを分析対象にするのではなく、ヘテロ規範の構築と維持の形態、ヘテロ規範内部における多様な権力の軸のあり方、そして規範の失敗や限界などに、もっと多くの分析と考察とが向けられるべきだという点は、全くその通りだと思う。そもそも、クイア・スタディーズの最大の強みの一つは、それがマイノリティを対象にした研究ではなく、クイア「ではない」存在とされていたマジョリティが、いかにその存在の根幹において「クイア」に依拠しており「クイア」と峻別しえない存在であるのかを示す、ある意味でマジョリティを分析の俎上にのせる研究であるという点にあるわけだから。とりわけ、ヘテロ規範を(そして「ヘテロセクシュアリティ」を)一枚岩のものと見なすことの危険性の指摘は、私もアタマでは理解しているのだけれども、実際の研究ではきちんと分析しきれないままに「ヘテロ規範」の用語に安易に頼るところがあることは否めず、あらためて自戒。
また、straightの研究者がqueerにアイデンティファイすることが、研究者本人にある種の差別化と自己正当化をもたらすだけで終わってしまい、結局のところヘテロ規範やそのアイデンティティを補強しかねない、という可能性の指摘は、事例の分析もあって、説得力がある。とりわけ、安易な人種的クロス・アイデンティフィケーションを批判する以下の部分から、アイデンティティの可動性の条件へと着目することを要請する部分は、示唆に富む:
'[However], the white subject's claim to nonwhite prticularity can be asserted only from the position of the univeral, since it is in the space of the universal, and never the particular, that the theoretical mobility of political identification by definition takes place' (A.Schlichter. 'Queer At Last?' 555)
アイデンティティの可動性が常に規範に近い側にのみ許される贅沢であるということは、B.Martinがクイア理論におけるミソジニーを批判した時にも指摘していたことでもあるし、例えばドラァグ・クイーンが現状ではドラァグ・キングより受け入れられている原因の一部をそこに見ることもできようし、「白人」が「黒人」を演じることは古くから許容されているにもかかわらず、その逆は殆ど受け入れられない(少なくとも成功したものとは見なされない)ことにも、それは現れている。
実際、自分がマイノリティであればあるほど、その「マイノリティとしてのアイデンティティ」をひとたび構築されてしまえば、そこから移動していくことは、心理的にも社会的にも困難になっていく。
翻って、それでは私はどうなのか。
私がセクシュアル・マイノリティであるとアイデンティファイすることは、アイデンティティが可動である特権を無自覚に享受しているのだろうか。私は自分がヘテロセクシュアルであるとはどうしても思えないのだけれども(その意味では、私のセクシュアリティは、生まれつきかどうかは不明ではあるし今後変わらないかどうかも不明ではあるけれども、自由意志で変えられるものでもない)、既存の「セクシュアリティ」を見渡してみれば、かといってホモセクシュアルでもなく、バイセクシュアルでもなく、そしてアセクシュアルでもなく、ポリセクシュアルでもない。性やパートナーシップとかかわる私の行動は、それこそ「自己申告」がなければ保守的なヘテロ規範のそれと外見においてはなんら変わりがないし、だからこそハナからヘテロセクシュアリティしか念頭にないような場においては「私はヘテロセクシュアルではない」と自己申告をするわけだけれども、それはSchlichterの言うdesire for transgressionに裏打ちされているのだろうか。そうだとしたら、それは必ずヘテロ規範強化のために「クイア」を利用しているということになるのだろうか。
Schlichterのあげている例とは違って、私は自分の研究において自分のセクシュアリティを語る(あるいは明かす?その用語もどうなんだろう)わけではないけれども、極力、自分がレズビアンであるという誤解を生まないような用語選択をこころがけてきた。それでも私は自分は「当時者」として「クイア・スタディーズ」の領域にも含まれうる研究をしていると思っているわけだが、それは「クイア」の収奪であり、安易なクロス・アイデンティフィケーションなのだろうか。
もしもアイデンティティが「引き受ける」ものであり、したがって「引き受ける」以前に常に既に「付与されている」必要があるとしたら、私は何を与えられているのか。「異性愛でも同性愛でも両性愛でもない」というものなのだろうか。私は「セクシュアル・アイデンティティの構築に失敗した」というアイデンティティを持つことになるのだろうか。しかしたとえば日本の文化の中で育って、そういう意味で「クイア」を「引き受ける」ことの出来る人がどのくらいいるのだろうか。「クイア」を収奪することなくそれを引き受ける権利を付与された人とは、誰なのだろう。
厳密に言えば、それは「クイア」と呼びかけられたことのある人なのだろう。その言葉で、その言葉の持つ侮蔑を全身に受けつつ、呼びかけられたことのある人なのだろう。そして、その意味において、私は確かに「クイア・スタディーズ」の「当事者」ではないのだ。
誰が「クイア」への権利を持つのかというこの点については、Schlichterの答えは満足のいくものではない。特に論文の前半において、「クイア」は基本的に「ゲイ・レズビアン」として解釈され、それに「ストレート=ヘテロセクシュアル」を対峙される。これは余りにも乱暴な議論だ。ここには、そもそも「クイア」理論やムーブメントに当初から参加していたBやTの入る余地はないし、ストレートではないヘテロセクシュアルはそもそも存在できなくなっている。後半で、クイアにしろヘテロ規範にしろ一枚岩ではないという議論を展開しているだけに、これは私にはちょっと理解できない。これは、ストレートの(後出しの)クイアへのアイデンティフィケーションを拒絶するという問題ではなく、そもそも最初から「クイア」に含まれていた存在を後から排除しようとする、カテゴリー専有の身振りではないだろうか。
**メモ**
ヘテロ主体、あるいはストレートな主体が構築されること。その限界。
I suggest that we must understand the critique of heterosexuality through the notion of heterosexual subjection. ... It is crucial that we develop an understanding of hetrosexual subjection as an overdetermined process of "becoming straight" under the conditions of heteronormativity.(A. Schlichter. 'Queer At Last?' 559)