性的「指向」についての議論の続き。Hodgeさんから
再び反論をいただいたので、返答したいと思う。
で。本当に繰り返しになりますけれども、私は「同性愛/異性愛」という二項対立に現在深刻な抑圧が存在していることは当然のことながら肯定していますし、その意味で、この二項対立の抑圧される項である「同性愛」を、この二項対立とは別の対立軸の項と「同じである」と言うことは、現状ではできない、とも何度も書いています。その点においては、私とHodgeさんの認識は重なっていると思うのですが、いかがでしょう。
その上で、おそらく私とHodgeさんの最大の違いは、2点あると思います。
1.戦略として「同性愛/異性愛は指向である」と言うべきかどうか。
2.実際に「同性愛/異性愛は(他の嗜好とは異なり)、必ず生まれつきのものであり、その故に指向として区別される」ものであるかどうか。
1.については、私は、今回のエントリーで、一般論として「そうは言わない方が良い」と書きましたけれども、正確には、言う時と、言う相手、そして言い方によるとしかいえないのではないかと思っています。「こういう問題について全く考えたことがない相手(ヘテロ規範に疑いをもたれていない場)においては、とりあえずこれは<指向>だと言うところから始める」と書いたのは、そのためです。
ただ、これが「同性愛/異性愛は指向である。SMなどの嗜好と一緒にするな」という言い方で、セクシュアリティやジェンダーに関係する政治の中で流通するとき、私はそこに「だから、こちら(指向)は差別するな。あちら(嗜好)は勝手にしていることだからどうでも良い」という前提の存在を感じるし、さらにそれが「こちら(指向)は常に本質的・生得的なものであり、だからこそ差別されるべきではない」という言い方に近づくとき、そこに「本質的・生得的なものでなければ、本当の同性愛/異性愛とは言えない」「そして、本質的・生得的なものでなければ、正当性は主張できない」という前提の存在を感じます。そして、私はそのどちらの前提も、実際に抑圧的に機能しうる、むしろ、実際に現在抑圧的に機能しているイデオロギーである、と考えます(これらの前提がどういう風に抑圧的に機能するのかは、それこそバトラーや、あるいはフーコーといった理論家が、すでに明確にしていると思います)。
勿論、より具体的な政治レベルの問題で、「それでも現状としては同性愛/異性愛は指向としてそれ以外とは区別する方が有効である」という議論はあると思いますし、さらにそれよりはるかに些少な話にはなりますが、「誰もが見る可能性のあるブログという場では、指向という主張を崩すべきではない」という議論もあるかもしれません。
前者については、同性愛でも異性愛でも両性愛でもないという立場にある私は、それが「同性愛者/異性愛者」にとって有効であるならばそう思う人が推進してくれればいいけれど、それがゴールになることは私にとっては最終的に不利益をもたらすと思われるので、自分でそれを積極的に推進することはしないだろう、と言うことしかできません。その上で、この区別(指向/嗜好の区別ということです)が、ホモフォビアに対抗するための便宜的な有効性を持つと考える場においてはそれを利用するけれども、その有効性を超えてこの区別が「(本質的・生得的な)同性愛/異性愛」のどちらにもおさまらないセクシュアリティを切り捨てる口実になっていると考える場においては、それに異議を唱える、ということになります。
後者については、これは私が「ブログ」というものの性質を十分に理解しきっていないかもしれないので、反論のできないところです。チェックしてみたら私のブログにきてくださる人の数は非常に少なく、その殆どがそもそもこういうテーマに興味を持っている方ではないか(他のことって何も書いていないし)と思われるし、その前提がなければ、私が本当に考えたい、他の方の意見もできればうかがいたい、そういうことについて書くことは一切できなくなってしまうので、ここで書いても良いかなと判断したのですが。これは今後も気をつけていきますし、考えていくつもりです。
2.についてですが、上で書いたこととも重なりますが、私は「同性愛/異性愛が、他の嗜好とは<本質的に>異なっており、必ず生まれつきのものである(それを<指向>と呼ぶ、というのがHodgeさんの主張ですよね)」とは思いません。繰り返しますが、実際にこの二つが他の嗜好とは別の扱いを受けているとは認識していますけれども、その「扱いの違い」について異議を申し立てるべきであって、「この二つは、それぞれに対等な、しかしそれ以外とは特権化・区別化した、扱いを受けるべきだ」という要請は、最終的には「それ以外の嗜好」の持ち主は言うまでもなく、個々の同性愛者・異性愛者をも抑圧するシステムに加担してしまうのではないかと思っています。
それから、これも何度も書いたことですが、私は「私のセクシュアリティは生まれつきのものだ」という個々人の「認識」を否定したことは一度もありませんし、否定するつもりもありません。私はHodgeさんとは異なり、欲望も「必ず」社会的に構築されるものだと思っていますけれども、それは個々人が「自分のセクシュアリティは生まれつきだ」と感じること、ましてやそれが「好き勝手に変更・選択できない」と感じることとは、全く矛盾しません。「自然な感じ方」を構築していくことこそが規範の働きであり、そして「社会的に構築される」ということは、ある意味では「したがって自分の好き勝手にはできない」ということでもあるからです。つまり、セクシュアリティが「選択の結果」でないことは、そのまますぐにそれが「生得的な・本質的なもの」であることにはならないのです。さらに言えば、たとえセクシュアリティが生物学的に生得的に決定されているものであったとしても、現実に「自分は自分のセクシュアリティを選択した」と「感じ」そしてそう主張する人がいる以上、それはそれで、「自分のセクシュアリティは選択できるものではない」という感じ方と同様に尊重されるべきだ、と思っています。
つまり、私は「セクシュアリティは選択の結果だ」と言っているのではないのです。本当に。「セクシュアリティは選択の結果<でもありうる>」と言っているだけです。「セクシュアリティは選択の結果<でないことも勿論ありうる>」わけです。
私が異議を唱えたのは、「セクシュアリティは(というか、同性愛/異性愛<だけ>は)、常に必ず本質的であり生得的なものだ」という命題であり、それを「セクシュアリティは(というか、同性愛/異性愛<だけ>は)、常に必ず恣意的な選択の結果だ」という命題と二項対立的に設置すること、です。
(ちなみに、ジェンダーは社会的に構築されるが、欲望、ここでは同性愛/異性愛という欲望に限定してお話になっているようですけれども、その欲望は本質的だ、というのは、無理がありませんか。ジェンダーが社会的に構築されるのであれば、当然、欲望が「同性に向かうか異性に向かうか」は社会的に構築されているのではないでしょうか。そして、ジェンダーが社会的に構築される、すなわち、本質的で生得的なものではないとしても必ずしも恣意的な選択ができるわけでもないように、欲望が社会的に構築され、本質的で生得的なものではないとしても、それは必ずしも欲望のあり方を恣意的にコントロールできるということではないのではありませんか。)
現在のシステムにおいて、ジェンダーによって規定される欲望の対象に関わる指向/嗜好(つまり同性愛/異性愛)の軸に沿って圧倒的な抑圧が存在しているのは、繰り返しますが、そのとおりです。したがって、多様なセクシュアリティを考えるときに、この抑圧への抵抗が最優先されるべきものの一つであるということにも、同意いたします。
けれども、「同性愛/異性愛<だけ>は、常に必ず本質的で生得的だ」という主張が、抵抗の手法としてどの程度効果的かを、考えなおしてみるべきではないか、と私は言っているのです。
その理由の一つは、この主張が「同性愛」と自己認識する人々の一部を(そしてそれは必ずしも例外的少数ではないと思います。例外的少数ならどうでも良い、ということでは、勿論ありませんが)切り捨ててしまうから、そして、この主張が、既存の二項対立的なジェンダー区分の特権性を補強し、結果としてこの二項対立的なジェンダー制度と相互に支えあっているヘテロ規範をも補強することになって、「同性愛/異性愛」という軸に必ずしも綺麗に一致しない欲望の形態を持つ「同性愛者/異性愛者」、そしてそれ以外のセクシュアル・マイノリティに対する抑圧を、さらに強めることになるからです(実際のところ、これは、この軸に一致する「同性愛者」に対して抑圧的なシステムでもあります)。
もう一つの理由は、この主張の射程が非常に短い、ということです。勿論「現在の」システムでは「同性愛/異性愛」という軸がセクシュアリティにまつわる最も強い抑圧を生んではいますけれども、ここで「生得的で本質的なものとしての同性愛」だけを抑圧の対象から外すために、「生得的で本質的ではない嗜好」を、いわばダシに使ってしまうとは危険だと、私は思うのです。たとえば歴史的に言えば、人種を超えた欲望が同性愛よりもさらに「悪い」ものとして見られることがあったわけですよね。白人男性同士の同性愛よりも、あるいは白人男性と黒人男性の同性愛よりも、黒人男性と白人女性の異性愛こそが暴力的に抑圧されたとする研究もあったと思います(R.Dyerだったと思いますが、本が今手元にないので、違ったかもしれません)。このような「嗜好」は「生得的で本質的でない、ただの嗜好」であり、それに対する抑圧は、セクシュアリティの抑圧として考えなくても良いのか、ということになります。
ただ、この部分については、Hodgeさんと私との主眼というのか、立ち位置の違いが、あるのかもしれません。そして、それは私が
昨日のエントリーで少し触れた、特権的地位の問題にかかわっているのだろうと思っています。
多分、私はセクシュアリティの抑圧に対する抵抗を考える時には、私個人の問題から出発はするけれども、自分に想定できる限りのさまざまな仮説上のシチュエーションで(将来的にも)抑圧的に働く可能性が最も低い抵抗の「ことば」を考えることを、目標とします(この「目標」が達成できるかどうかは、また別の話です)。つまり、私はそうすることのできる特権を享受している、ということです。私は、ヘイト・クライムに怯える日々を送ってもいないし、自分のパートナーの性別が知られたら職を失うかもしれないという恐怖も味わわずに生きているし、パートナーを紹介したりパートナーの話をしたりする時に、パートナーの性別のみを理由として家族や友人を失うかもしれないという可能性を常に考慮する労力も、免れています。それは、私のパートナーが現在は異性であるということとも関係があるし、私の職業とも関係があるでしょう(パートナーが同性であった場合、私を奇異の目でみる人はいるだろうし、嫌がらせも可能性としてはあるだろうけれども、私が直ちに職を失うことはないし、仕事をすべて取り上げることも難しいと思います)。そういう特権を享受しているからこそ、私は「現在私が経験している抑圧に抵抗するだけではなく、他の形においても抑圧的に働く可能性がもっとも低いのは、どのような抵抗だろうか」などと、悠長に考えていられるのかもしれません。Hodgeさんが「切実ではない」とおっしゃったのは、そういうことなのかも知れないと、考えています。
(追記:これをアップした後で、この書き方はもしかすると、「私は抑圧を回避しようと努力しているが、Hodgeさんはそうではない。私は広い視野を与えられているが、もっと抑圧されている人は、まさにそれゆえにその抑圧については視野が狭くなる」と言っているように読めるのではないか、と非常に不安になったので、追加して明記しておきます。どういう風に書けば良いのか、力不足で適切に表現できずにいるのだけれども、そういうことでは決してありません。そうではなくて、私が「同性愛者」に対する抑圧を自分の身で痛切に経験していないという理由(そしてそれを補う想像力が不足しているという理由)によって、私には見えないままでいる緊急性や論理があるのかも知れない、ということです。私は「性的指向」論を抑圧的になりうると考えているけれども、それは私が小さい抑圧にも敏感だからではなく、逆に現行の大きな抑圧に鈍感だからかもしれない、ということです)
そうだとしたら、私はどうするべきなのか。
私にはその答えがわかりません。
同性愛/異性愛を、他のセクシュアリティや性的嗜好とは完全に異なる、そして常に必ず本質的で生得的な「指向」としてとらえ、それを根拠としてホモフォビアに抵抗する、という方向には、散々述べてきたような理由によって、私は賛成することができません。私にとっては、それは、個人的には自分に対する抑圧を強化する戦略であり、経験的には「同性愛者」の一部の声を切り捨てるものであり、理論的には「(同性愛者を含めた)セクシュアル・マイノリティ」にとっても「異性愛者」にとっても(そしてジェンダー・マイノリティである女性にとっても)抑圧的に機能してきたジェンダー規範/異性愛規範を強化するものだと、そう感じられます。
私が批判したかったのは、「同性愛は性的指向であって他の嗜好とは違う」という「同性愛者」ではなく、そのような主張を必要とさせる体制であり、私が試みようとしたのは、このような主張ではない別の主張によってこの体制に抵抗する可能性を探ることだったのですが、それでもなお、「現時点においてもっとも激しい抑圧を受けているセクシュアリティ」としての「同性愛者」の一部の主張を、私は何はさておき支持すべきなのでしょうか。私が受ける抑圧が比較的小さいものであるという理由によって、私はこの件に関しては口をつぐんでおいて、実際に「指向」が完全に定着し、それによって新たな抑圧が激しく顕在化したとしたら、その時にはじめて異議を唱えるべきでしょうか。戦略的にはその方が正しいということになるのでしょうか。
これは「そんなことはないはずだ」という答えを導くための、修辞的な疑問ではありません。今のところ、私には本当にわからないのです。今の私にできるのは、「特権者」であり「抑圧者」であり、同時に、より苛烈さを欠く意味においてではあるけれども「被抑圧者」「特権から弾き出される者」であるという立場を、どうしようかと考えあぐねつつ、とりあえず考えることをやめない程度の最低限の誠実さを維持しようとすること、そのくらいです。