今回の一連の議論は残念ながらお互いにうまく理解しあえないままに終わってしまったようだけれども、色々と考えなくてはならない宿題が残ったので、とりあえずそれをメモしておこうと思う。
私はこのブログを「研究者として」書いているわけではないけれども、実際に私が何かを考えたり書いたり、それどころか感じたりするときでさえ、「研究者としての私」と「そうではない個人的な私」との間に明確な区別があるわけではない。それに加えて、私はここで自分の仕事について書いてもいるし自分が「ジェンダー・セクシュアリティ関係の分野での研究者」であることを表明もしているから、私がその分野に関連して何かを書けば、それが「研究者としての発言」として受け取られることには、何の不思議もない。
実際には私の研究対象(あるいは考察の対象)は「セクシュアル・マイノリティ」ではなく、たとえば特定の文化事例におけるジェンダー/セクシュアリティの政治の現れ方であったり、たとえばジェンダーやセクシュアリティの規範が身体を統御する(あるいはし損なう)仕方であったりするわけで、その意味で、「ジェンダー・セクシュアリティについてのヘゲモニックな規範」こそが「対象」になる。しかし、その過程において「セクシュアル・マイノリティ」あるいは「ジェンダー・マイノリティ」による発言や実践、理論や作品と言ったものを参照したり分析したりすることも、「マジョリティ」による実践や表現を参照したり分析したりするのと同様、確かにある。
他人の発言なり実践なり表現なりを、研究者というある程度の権力を持つ立場から、勝手に解釈し、分析し、あるいは利用するわけで、そもそもその行為自体が常に暴力をともなうのだけれども、この暴力については「その暴力性を常に意識する」こと以上のことが可能であるとは思えない(なぜならこの暴力は根本的には、「対象」を設定してそれに特定の文脈を与えなおす作業によって生じるものであり、「研究」に限らず、「分析」なり「批評」なりには必ずつきまとうからだ。この暴力を避ける唯一の手段はあらゆることに対して沈黙することだろうけれども、それは逆に、あらゆることについて現状を追認するという身振りになり、そこからまた別の種類の暴力が生まれてくることになる)。
問題は、その上での第二の暴力と言えるもの、つまり、研究者という「ある程度の権力を持つ立場」からの解釈なり分析なりの結果としての「発言」が既存の社会的抑圧と共謀することによる暴力の存在である。今回私が受けた批判の主要な部分が、ここにかかわっている。
研究者としてはその暴力を可能な限り回避あるいは軽減しようと努力するし、気がつかないところで気がつかない形で「暴力」を行使しているのではないかと検証し続けようともする。それが、研究者としての当然の、最低限の義務だということは、前にも書いた。
一面では、この暴力は研究者個人の属性とは無関係に発生する。「女性」研究者の発言が、「女性」の抑圧、あるいは「人種的マイノリティ」あるいは「セクシュアル・マイノリティ」の抑圧につながることは、いくらでもある。ここでは、「誰が」言ったかではなく「何を」言ったかのみが、問題になる。
しかし同時にこの暴力は研究者個人の属性とも密接に関係している。マジョリティの立場にいる者にはしばしばマイノリティの見ているものが見えないからであり、また、マイノリティの「研究」がマジョリティに属する「研究者」(およびその研究者の属するマジョリティ集団)だけを利するようでは何の意味もないからだ。したがって、「男性」研究者がジェンダー抑圧について語る時、あるいは「ヘテロセクシュアル」の研究者がセクシュアリティの抑圧について語る時には、より慎重にならざるを得ない。
多様な抑圧のラインの全てにおいて絶対的なマイノリティに属する「研究者」というのは定義からしておそらくありえない。しかし、たとえば、私の受けている(あるいは受けるかもしれないと予想されうる)セクシュアリティに関係する抑圧は「同性愛者」のそれと比べればはるかに小さい。その意味で私はセクシュアリティに関しては「マジョリティ」の立場に立つ。同様に、私は「女性」であると自認し法的にも社会的にもそれで認められているから、「男性」とくらべれば「女性」として抑圧されている。しかしたとえばTSやTGと比べればジェンダーに関しても「マジョリティ」の立場に立っている。だから、私がジェンダー/セクシュアリティの政治にかかわる発言をする時には、私は自分の経験から自分の見えることだけに基づいて、自分に必要な要求だけを語るのではなく、自分に見えない抑圧、経験したことのない暴力を意識しようとしなくてはならないだろうし、自分の要求がそのような抑圧や暴力に加担しているのではないかと検証しなくてはならない。
その結果としての判断が、今回の一連の議論のテーマになった事柄について、正しかったのかどうか、私にはわからない。私は今でも私の主張が「それ自体として」間違えているとは思えないのだけれども、主張する場や方法(日本で、ブログ上で、DP法すら成立していないこの時期に、など)が適切であったのかどうか、いまだに繰り返し繰り返し考えている。(とりわけ、「当事者であり研究者ではない」ことを表明している相手に対して、「問い詰め口調」と受け取られる書き方をしてしまったことを、苦い思いで反省している。)
「自分に見えない抑圧、経験したことのない暴力」を意識しようとする試みは、危険なものだ。「意識しようとしている」ことを「自分に見えない抑圧、経験したことのない暴力」を意識し損ねる、あるいは自分に都合の良い形でのみ意識する時のアリバイとして機能させかねないし、それを自分に都合の良い形で代弁するという形でさらなる暴力を生み出す可能性も常に存在する。けれども、危険を避けるためにこのような試み自体を放棄すべきかというと、私はそうは思わない。
私は「同性愛者」の経験を身を持って知らないし、TSやTGの経験を通り抜けることもできない。私とは違うジェンダー、私とは違うセクシュアリティ、私とは違う多様な属性を持つ、私とは違うあらゆる人々の経験は、私の手の届かないところにある。私と同じセクシュアリティの人でも、ジェンダーや人種や社会的地位や文化背景や経済程度が違えば、セクシュアリティをめぐって全く違う経験をしている可能性が大きいわけだけれども、その人の経験も私の手の届かないところにある。
それらの経験を実地で体験し、知ることができないからと言って、その人々の経験する抑圧を考慮しなくて良い(あるいは考慮してはならない)というのは、私は自分のマイノリティ性(たとえばヘテロセクシュアルではない、たとえば「女性」である、たとえば単身者である。場合によれば、日本人であるとか、白人ではないということも、そこに含みうる)のみに目を向け、自分のマジョリティとしての立場(たとえばレズビアンではない、たとえば「女性」である、日本人である、研究者である、「健常者」である、など)には批判や疑いの目を向けなくても良い、ということになる。あるいは、「中流階級ヘテロ女性フェミニスト」は階級的抑圧やホモフォビアに抵抗する必要はない、「白人ゲイ男性アクティビスト」は人種的抑圧やジェンダーの抑圧を考える必要はない、ということになる。私は、それは正しくない、と思う。
勿論、あらゆる人があらゆる抑圧について常に考え続けることは、理論的にも実際にも不可能だ。あらゆる人があらゆる抑圧に対して実際に抵抗の行動を起こすことは、もっと難しいだろう。その上、「見えない抑圧、経験したことのない暴力」を意識しようと試みることは、それが「わかる」こととは違う。けれども、少なくとも「研究者」が「考え続けること」すらを理念として放棄してしまうのは間違いだし、少なくともそれらの抑圧や暴力の経験者が自らそれについて語っている場合には、マジョリティはそれに耳を傾けなくてはならない。
当然のことながら、耳を傾けたからといってその抑圧や暴力を本当の意味で知ることはできないから、この試みは常にその失敗の自覚を伴わなくてはならない。けれども、少なくとも、どのような抑圧の形態が問題になっているのかをある程度理解することはできるし、その抑圧の背後にどのようなシステムが存在してどのように機能しているのか、どのような抵抗が可能なのか、望ましいのかについて考えることも、できる。自分の立場からの要求や主張の、どこが誰にとって問題であり、どこが誰にとって共有できるのか、それをある程度知ることも、できる。
そして、それらの抑圧や暴力の一つの形態への抵抗の方法が、抑圧や暴力の別の形態と結びつく場合には(そしてそれはしばしば起きることだと思うのだが)、過ちを犯す危険を承知の上で、判断をしなくてはならない。これは研究者に限らず誰にとっても同じことだとは思うけれど、誤解を恐れずに言えば、とりわけ研究者やジャーナリスト、評論家などは、そのような判断をくだし、そしてその判断の論拠を述べて他の人々を説得するのが仕事の一部であり、それを避けて通ることはできない。
今回私は、「同性愛者」の一部がとっているホモフォビアへの抵抗の方法の一つが、「同性愛者」の別の一部や「同性愛者」以外のセクシュアル・マイノリティ、そしてジェンダー・マイノリティの一部にとっては直接的に、そして異性愛規範と二項対立的なジェンダー・システムの下でなんらかの抑圧を受けている人間全てにとって間接的に、抑圧的に機能するのではないか、と判断した。私がそう考えるようになったのは、何よりもまず、このような抵抗の方法に異議を唱える同性愛者やセクシュアル・マイノリティ、ジェンダー・マイノリティの一部の人々の「抑圧の経験」を見聞きしたからであり、それに基づく主張に説得されたからだ。
したがって、これは直接的には共闘や連帯の試みではない。間接的には、異性愛規範や性とジェンダーをめぐる抑圧に抵抗するという共闘の試みだということもできるけれども、直接的には、一つの抵抗の方法が別の抑圧を引き起こすことに対する異議申し立てである。
しかし、この「異議申し立て」は多分に「代弁」に基づくものだ。私一人の経験に基づいて私が同じ異議申し立てをしたかどうか、私にはちょっと自信がない。理屈として違和感を覚えただろうとは思うけれども、それに基づいた発言をしたかどうかは、わからない。とすると、今回批判されたとおり、「同性愛者」に対しては「マジョリティ」という立場にある私が実際にその「異議申し立て」をすることには、マジョリティからの暴力と他者(と)の安易な連帯/代弁という二重の問題がある、とも言える。
そこで私はまた振り出しに戻ってしまう。
「見えない抑圧、経験したことのない暴力」を意識しようとするというのは、どういうことなのだろうか。この試みを伴わない抵抗も、この試み(とその失敗)を通過した抵抗も、どちらも暴力的であるとしたら、いつ、どこで、どのような抵抗の形態が望ましいのか、どうやって判断すればよいのだろうか。そもそもそれを判断するというのは、どのような暴力なのだろうか。