反時代流論争(あう。タイトルが変わったのに私のメモ帳のタイトルはそのままだわ)での
身長差による差別について。
本文と余り関係ないようなあるようななのだけれど、ちょっと面白かったのはここでタイトルが「見えない差別」になっていること。「容貌による差別」「身長による差別」、どちらも「視覚的要素(目に見えるモノ)を根拠にした差別」なのだけれども、それが「見えない差別」だというのも確かに正しい。政治的可視性と物理的(というのかな)可視性とが必ずしも一致しない例なのだろう。
「エコノミスト95年12月号」の記事が身長差別の例としてあげている中には、それって本当に身長差別の問題なのか?と疑問に感じるものもないわけではない。たとえば、
【専門職】
ある研究によると、高位職にある人はそれ以下の職にある人よりも約2インチ(約5センチ)長身。この結果は、教育や社会経済上の地位が同等の者を比較しても同じで、例えば英国の上級公務員は下級公務員より長身の傾向にあった。
とあるけれども、「教育や社会経済上の地位が同等」というのが良くわからないのだが(「上級公務員」と「下級公務員」では社会経済上の地位は明らかに違う)、少なくとも「英国の上級公務員と下級公務員」を比べた時って階級差の問題(場合によっては地域間格差の問題も)がありそう。この調査の年代などもわからないし、そもそも正確なことはいえないのだけれども、英国では上流階級の方が背が高めだったとどこかで読んだ記憶があるし、50年代のサッカー選手の写真を見たら同時代のラグビー選手とくらべて目立って小柄で、階級間の体格差の存在を感じた、と知人に聞いたことがある(当時はまだサッカーは労働者、ラグビーは中流階級、という区分が現在よりも強かったのだそうだ。この体格差が遺伝的なものなのか、成長期の栄養なり運動なりによるものなのかは私には分からないけれど)。地域的にも、たとえばイングリッシュはウェリッシュと比べて明らかに背が高いけれど(これは民族の問題)、同時にイングランドはウェールズとくらべれば経済的に豊かでもあって、上級公務員が下級公務員より長身の傾向があったとしても、それは「背が高いから上級公務員になった」ではなくて「(上級公務員になるだけの)高等教育を受ける経済的余裕があるイングリッシュが多かったから」という可能性も排除はできない。
けれども同時に、
【セックス】
100人の女性に、長身・普通・低身長の男性の写真を見せて質問すると、全員、長身と普通の男性が低身長の男性より「断然魅力的」と回答した。別の調査では、79人の女性のうち2人のみが自分より低身長の男性とデートしてもよいと回答した(残りの女性は、平均して自分より1.7インチ長身の男性とのデートを希望した)。
などのようなことは、いかにもありそう。そして、そういう「魅力」に左右された結果として、人間関係や仕事の局面で微妙に損をし続けるということも、いかにもありそうだ。その点、「容貌による差別(とまで明確ではないにせよ、少なくとも容貌に根拠を持つ不利益)」の一環では確かにあるのだろう。
実際、数年前に見た整形手術に関するテレビドキュメンタリーでは、顔だの胸だのといったおなじみのパーツの整形や脂肪吸引に加えて、男性の全身に筋肉(があるように見せるためのシリコン)を入れる手術や、そして脚の骨を整形して背を高くする手術なんかが紹介されていた。この最後の手術は紹介されていた二例がどちらも米国のラティーノで、ある特定の人種や民族の身体の規範化が引き起こしうる文化的な暴力を感じたりもした。勿論そういう手術を受けられる経済的基盤がある人たちなわけだから、差別とか暴力とか言っても比較すればそれほどシビアなものではない、手術したいならやればいい、ともいえるわけだけれど、それで終わっちゃ終わりだわ、という気もするわけで。
そもそも身長を含めた「容貌」の良し悪しというのか美醜というのは基本的には文化的ヘゲモニーの問題であり、何が美しくて何が美しくないか、何が見るに値して何から目をそらすべきなのか、それを設定している価値体系は、社会的権力や経済力の配分と密接に関係しているし、既存の権力配分を補強する方向で機能することが多い。逆に言えば、「美醜」の判断基準をずらすことが社会的な権力配分の変化に寄与することもありうると私は思っている(Black is Beautifulのムーブメントなんかはその例ではないだろうか)。その意味では、ガングロとかヤマンバといった一連の異装にはちょっと期待があったのだけれども、結局「女子高生」という一種のモラトリアムを超えるには至らなかったかしらん。
それはともかく、
根源的には、人間の「視線」-それも美意識を伴ったーというものを問い直さねばならないであろう。
この点は本当にそのとおりだと思う。それは「視線」から美意識を取り除くべきだということではない。「美意識」あるいは広義に行ってなんらかの価値判断を伴わない「視線」(あるいは視線の欠如)を想定するのは難しい。けれども、視線のあり方、あるいは視線を構成する価値体系のあり方を、問い直したり学びなおしたりすることは、できるはずだ。
Kaja Silvermanは、以前、自分が通勤途上に見かけるホームレスから無意識に目をそらしていたことに気がついた経験を語り、そこからいかにして「視線のあり方」を変えていけるのかという議論をしていた(Silvermanはそのような「視線のあり方」の再学習を促す可能性を持つものの一つとして視覚芸術をあげる)。ペドフィリア・パニックとか「青少年の健全な育成」があったり、24条をめぐる改悪があったり、明らかに緊急の課題が日本のフェミには山積みになっているけれども、こういう一見即効性も生産性もなさそうなことをきちんと考えていきたいというのが、へたれ机上としての私のフェミ課題だったり。