反時代的コラムよりトラックバック。
以前にもちょっと書いたけれど、私も同性愛結婚には微妙に懐疑的。もちろん、異性間で認められいる制度が同性間では認められないのはあきらかな差別であり、その差別に「反対する」という観点からは、同性愛結婚の推進には一定の価値があると思う。けれどもこれはあくまでも「差別への反対」に主眼をおいた場合であって、「制度への承認」という点からすると、同性愛結婚を含む結婚制度全般を推進することに、私はそれほどの意味を見出せない。
「結婚」の話をするときにちょっとややこしいのは、英米モデルで(特にアメリカモデルで)考えるときの結婚は、非常に宗教的色合いが濃いということで、「結婚」というのは宗教制度と国家制度の二つが密接に絡んだ場になってしまっている。日本の場合の結婚というのはおそらくもっと宗教的色彩が薄いのが一般的なのでは(つまり基本的には国家制度の問題だということが多いのでは)ないか。
で、宗教的に結婚をしたいという人(教会なり何なりに結婚という絆を認められることが重要だという人)は、それはホモ・ヘテロを問わずいるだろうし、それをとやかく言う気は毛頭ない。
問題は、国家制度としての結婚で、こちらを現在の形態のままで推進することはどうも私には理論的には抵抗がある。モノガミーを守って生きたい人はそうすればよいし、単身を選択する人はそうすればよいし、相手をがんがんとりかえて生きて行きたい人はそれでも良い。そのいずれを選択するにせよ、その選択のいかんによって、国家・社会から個人が権利として受けられる保障(医療にせよ生活にせよ)、そして還元しなくてはならない義務(一番わかりやすいのは税金)の質量に差があってはいけないだろう。さらに、「反時代的コラム」氏の言うように、そもそも、人生のある特定の時期に自分がパートナーシップという点でどの選択をしているかはいちいち国家に報告して記録されるべきことではないはず。
パートナーシップ法についても、ある意味では「宗教的色彩のない結婚」というところから出てきた話なわけであって、結局は結婚制度と同根だという同氏の議論も、その点では納得がいく。もちろん、パートナーシップ法が必要とされる背後には、例えば医療上の処置に際して本人以外の家族の同意が求められるときに、法的に認められていないパートナーがその役割を果たせないこと、あるいは、本人の死亡にともなう遺産分与などのときにパートナーにしかるべき権利が認められないこと、などの問題があるわけだけれど、それは同性・異性(あるいは性的関係の有無)を問わず、それぞれの場合についての正当な権利の保持者を本人があらかじめ指定しておくように制度を作り変えれば、それですむ話ではないだろうか(それとも違うのかしら。法的にはそういかない理由があるのかな)。
ただ。そこまで行っても、それでもなおパートナーシップ法はいるかな、と思える理由が、一つ。
パートナーが同国人ではない場合は、どうするのだろうか。個々人への保障というのは、国家体制というものが存続している限りは、あくまでも自国人(および滞在ヴィザを持った外国人)に対して行われることになるだろう。で、日本の場合、パートナーが日本人の場合は、それでOK。パートナーが外国人でも、ちゃんとお仕事ができて(結果として滞在ヴィザが獲得できて)いれば、OK。
問題は、パートナーが日本人ではなくて、しかも永住権を得たり国籍を変更したりするほど日本に長く住んでいたわけでもなくて、しかも何らかの事情で働けなくなってしまった場合。結婚すればそれによってヴィザはおりるだろうし、パートナー法で登録されれば同じくヴィザがおりることになるんだろう(おそらく、だけど)。けれども、結婚もしていない、パートナー法で登録もされていない、永住権なり何なりを申請する権利もまだ持っていない、かといって仕事をすることもできない、そういうパートナーは、どうなるのだろうか。
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もちろん、国籍の枠だの合法・不法滞在の垣根だのをとっぱらえ!という議論が正しいのだとは思うんだけれども、実際問題としてそういう方向に話がすすむとはとても思えないし、反面そういう事態がわが身に降りかかる可能性は必ずしも小さくない以上、「(結婚非婚を問わずパートナー単位ではなく)単身単位での社会保障」を主張する方にはそこも議論していただけると、うれしい。「反時代的コラム」氏に突っかかっているわけではなく、常々「単身」主張をなさっている上野千鶴子氏に感じていた疑問なのだが。
わたくしはといえば、結婚制度(パートナーシップ法を含む)には、原則反対です。でも現実それがないと心配です。はい、へたれです、すみません。
っていうか、机上で原則論こねくりまわしてる暇があったら、真剣にパートナーシップ法のあたりとかの研究会にでも参加すべきですね、わたくし。[ ]