慣れない「歩き回り」をしていたら、サンダルでひどい靴擦れができた。靴擦れっていうより、単刀直入に水ぶくれ。夏場というのはやっぱり何かと辛い。素足にヒールのついたサンダルで、とりわけ暑い日でサンダルの紐のところが微妙に足の皮膚にくっついちゃったりすると、確実に水ぶくれと共存共栄な毎日。
水ぶくれのひどいのというのは、私の場合、針の先をライターでちりっといい具合に焦がしてからぴちっと突き刺して水を出してやらないと、いつまでたっても治らない。けれども、水ぶくれがいい加減大きくなりすぎると、この「水を出してやる」というのが、一人洪水状態で大変。なんかこんなに体液出ちゃっていいんだろうかと思ったり。ティッシュ2枚や3枚じゃぜんぜん効かない。痛いし。
ヒールのない靴だとか、スニーカーだとか、そういうのを履けばいいだけの話なのだけれども、わたくしの「見栄」がどうしてもちょっとはヒールがついたものを履きたがるのよ!あのカツカツ言う音が好きとか、ちょっとだけ背が高くなる感じがすきとか、理由はあるのよ!いや、足の皮膚をぶよぶよにしてまでヒールを履きたがる合理的理由は自分でも一つとして思いつかないんですけどね。
そうやって自分のカラダを痛めつけて、たとえば「綺麗」あるいは「素敵」(スリムでも胸が大きいでも足が小さいでも何でもいいんだけれど)であろうとすることを、フェミはずっと批判してきたわけで、そういう意味で私はどこかで根本的にフェミに逆行している。
確かに、他人に対して「胸が大きくないとだめだ」とか「足が細くないとだめだ」とか「化粧を華やかにしろ」というのがおかしい、問題だ、批判しようぜ!というのは私にもとてもよくわかるし、賛成できる。問題は、自分がそうしたくなっちゃっう場合、正確に言えば、そうしないではいられないような精神構造をつくりあげてきちゃった場合だ。いろいろな問題を理解しつつあえて選択をするとしたら、最後は個人の問題だ、ですむのかしら。たとえば、昔は「化粧をする女はフェミニストとしては失格!」と言う人もいたらしいけれども、今はそういう人はいない(少なくともとても少ない)だろうし、それに対する反論も山ほど出ているだろう。オーケー、じゃあ、化粧をするのはフェミには逆行しない。でも、それじゃあ、豊胸手術をする人は?美容整形は?「やりたい人はやればいい、それもエンパワメントの一種」ですむのだろうか。それとも、やりたい人を批判はしないけれども、危険をおかしてでもそういうことをやりたいと思わせる文化制度を批判する?あるいは、摂食障害は?摂食障害については本当にいろいろな議論があるので一概には言えないけれども、私は、「綺麗でスリムな女性でいる<ための>」努力が結果として摂食障害につながることはある(もちろんそれ以外の原因もある)と考えている。そうだとすると、その場合には誰をどう批判するべきなのか、あるいはしないべきなのか?「やせたいと思うあんたは馬鹿」と言う?「あんたは自分の体を自分でコントロールしようとしてるんだから、エライ」と言う?「あんたはが馬鹿かエライかはとりあえずおいて置いて(<わたくし風味)、そういう手段を選択させる文化が悪い」と言う?
学校の美術史で習うような有名な「画家」の中で、私は昔からゴッホが一番好きだ。「ゴッホの絵」ではなくて、「ゴッホ」が。別に伝記だの書簡集だのを読んだことがあるわけではない。ただ、あの有名な「耳切り」の伝説が好き。自画像を描いた。耳がうまく描けなかった。こんな耳、邪魔だ!切っちゃえ!
で、切っちゃった。
フェミ的には全然駄目なのだろうか、この行為。それとも、「両耳がそろっていなくてはいけない」という文化的規範に果敢に立ち向かって自分の身体を自分のコントロールの下に置こうとしたという意味で、エライだろうか。そんなことを考えるのって、そもそもフェミなんだろうか、と言う問題は別にして。性別や人種というファクターも含めて自分の身体の見え方を自分でコントロールできる限界を探っていた森村泰昌氏の初期の作品に、ゴッホの自画像のパロディがあったのは、偶然ではない。森村氏の作品がフェミ的に興味深いものであるのは間違いないし、だとしたらゴッホのこの行為もフェミ的に興味深いのではないかとは、思うんだけれど。
自分もそういうことをしたいと思うことがあるけれど実際にはとてもそこまではできないという一点で、私はゴッホに心から感服する。
お腹のこんなお肉、邪魔だ!切っちゃえ!
・・・とても出来ません。でも、似たようなことをしている人たちは、いる。
きれいにスリムになりたいからついに生存に必要な最小限の脂肪も許容できなくなった人と、ゴッホとは、違うのだろうか。あわない靴に足をあわせようとして足の方を切り落としちゃったシンデレラのお姉さん達は、ゴッホとは違うのだろうか。あっちはえらくてこっちはグロテスクなの?どっちもエライの?どっちもグロテスクなの?問題の立て方が違っている?
きれいになりたいから、肌の色を変え、顔の形を変え、人種と性別の両方を一度に飛び越えようとしてしまったマイケル・ジャクソンは、どうして笑われるんだろう?(まあ、本人が「病気」と言い張るから笑われるというのもあるのかもしれないけど。)既存の性やジェンダーの区分を越境するようなパフォーマンスを評価しているるクィアやトランスの理論でも、マイケルがエライと言っているものはないような気がするんだけれども、どうしてなのだろう?(あるのかしら。ご存知の方いらしたら教えてください)
わたくしの感覚としては(感覚でモノを言っちゃ駄目ですが)。
ゴッホもシンデレラのお姉さんもマイケル・ジャクソンも、足の水ぶくれで涙ぐんでる私よりはずっと、エライ。
何の結論にもなりませんけど。とりあえずあと数日は絆創膏が手放せません。